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冷え切っていた部屋の暖炉に薪を燃べて、男は広い毛布を見た目だけは人形のように可憐で美しいそれに貸してやった。幼き麗人は自身に近づいてきた精悍な顔立ちの男にちらっと目を遣り差し出されたものに視線を動かすと、礼も言わずに毛布を受け取り自らの体を包んだ。
セジョーヌは機嫌が悪かった。
あのあと、ギリッと歯ぎしりをした闇を纏った男は、こともあろうか、セジョーヌの首根っこをつまみ上げ宙に浮かんだのだ。そう、まるで猫の仔を扱うようにセジョーヌの首の皮をつまんだ。セジョーヌは陸に上がったことがなかったので猫科の動物など知らなかったが、それでもとにかくこれが屈辱であることは理解した。初めての空中遊泳は頭部を支点にあっちに揺れこっちに揺れ、つままれた首は痛く最悪であった。きっと赤くなっているに違いない。長い爪で傷つけられなかっただけまだましなのだろうか。姉上に似た肌理細かい美肌の価値をとんと分からぬ無粋者に、己を雑に扱った無礼者に、セジョーヌは心底腹を立てていた。
無言でいる二人の代わりに火の爆ぜる音が室内を満たす。格子の填められた窓からは明るい陽の光が射し込んでいた。それでも冬のこの時期はこんこんと冷える。
男は深い鍋を大きな木製の匙でかき混ぜていたが、棚から椀を取り出すと同じく今度は小さめの木製の匙を添えてセジョーヌの目の前に置いてやった。そのまま彼の正面の椅子に腰かける。
広さが然ほどないこの家は、目につくもの――角材から家具、そしてカトラリーまでが硬質な青年には一見不似合いな自然素材の木製品で、どことなく温かい空気が漂う。セジョーヌが暮らす海中では石製の物が多い。それだけでも海育ちのセジョーヌには物珍しかった。
「なんじゃ」
「山羊乳煮。食え。パンもある」
鼻を擽る甘い匂いにセジョーヌは顔を上げた。相変わらず口はへの字のまま、椀と藤の編み籠に盛られたパンを目でなぞり、最終的には胡乱そうに男を一瞥した。
「なんじゃこれは」
「飯だ。俺は優しい。家出少年に朝飯を振舞ってやろう」
「そうではない。これは一体なんじゃと訊いておる。飯と申したな。しかしこれは怪しげな湯気が立っておる。毒の類ではないのか」
珍獣を見つけた高揚感が手伝って、機嫌良くジョークさえも交えながら親切で出した料理を毒だと言われ、常であればこの不義理な余所者をつまみだす――あるいは指の一振りで男に備わった力を使い藻屑にしてしまうところだったが、男の感情は怒りよりも驚きに動いた。それはセジョーヌにとって幸運なことであった。この世は弱肉強食だ。少年の命など、男の気持ちひとつでどうとでもなる。
「お前、こいつを食ったことがないのか」
「こいつと言うのはこの白っぽいものか。怪しげなものよ。そち、これがまこと食べられると申すのであれば、先に食べて賜もれ」
「……人魚を儚い悲劇の一族だと言った古来人を締め上げてやりたいものだ」
顎をしゃくり、高慢な物言いに文句を垂れながら、男は匙を口に運んだ。その間もセジョーヌが男の口元から目を離すことはない。男の喉が動き、中の物を飲み下したことを確認すると、セジョーヌも漸く目の前の椀を両手で持ち上げた。
「ふむ」
右から左から、椀を傾けながら白く濁った液体の様子を確認し、匙でまずはひと口。湯気におっかなびっくりしながらも匙を口に入れると気に入ったらしく、強張っていた頬が緩む。それを見届けた男はパンへと手を伸ばし食事を再開させた。
「これはなんじゃ。ゴロゴロしたものが入っておる」
「仔山羊の肉、人参、溶けて形が崩れつつあるのは芋。お前今まで何を食ってきた」
「ほう。これが人参か。われらは海の生き物じゃ。貝や魚、他にもミネラルを練って作る栄養成分などを食す。たまに陸の物を土産に貰ったりはするが滅多なことよ。陸の者はこのように食材を温めて食すのだな」
「魚を焼いたりはしないのか」
「ふん。そのような冒涜いたすものか。尊い命はそのままに頂くものだ」
生きたままの生物を食すことが神聖かどうかは分からぬが、男の生まれた地も獣をそのままに食す文化があったため否定はしなかった。
物珍しげにひとつひとつの具材を確認し口に運ぶ見目美しいセジョーヌを観察しながら、男は立てた肘の上に顎を乗せた。あのままでは埒が明かなそうだったので取り敢えず連れ帰ったが、子どもの面倒を見なくてはいけない謂れはないのだ。次の満月まで自分の世界に帰れないと言うが知ったことではない。その辺で野垂れ死のうが関係ない。話を聞いてやったのも相槌を打ってやったのも、ほんの気まぐれなのだ。決して彼が面食いだからではない。
「ふむ。これは美味かった。このように味の濃いものは初めて食べたが、舌触りも相まって面白い。固形物が解けるように崩れるのもまた良いの」
与えられたものをきれいに平らげたセジョーヌは、やおら背筋を伸ばし、そしてそこで初めて男の姿をしっかりと見た。男もセジョーヌを観察していたために真っ直ぐに視線が絡まる。
「そなた、良い目をしておるな。禍々しくもあるがそこがまた美しい。陸の人間とはこのように美しいのだな」
「ふっ。それは至極光栄。しかし、人間の瞳は紅くない。住む場所によって異なるが、この色を持つものは悪魔と厭忌される」
「そなた、悪魔であったか」
セジョーヌは重々しく頷いたが、男は口の端を引き上げて否定した。
「いや。俺は魔族だ。悪魔ではない」
「悪魔と魔族は違うのか」
「悪魔は人間が生み出したものだ。少なくとも俺は人間どもが悪魔だと喚きたてるそれに該当しない。魔族は魔族だ。お前が人魚であるのと同じだ」
「そうか。魔族は実在したのだな。魔族だの神族だのは神話の中の話だと思うておった」
「それはお互い様だ。俺も生きた人魚を目にするのは初めてだ」
「ふむ。ではそなたはわらわを食らうのか。いやその前に……。そなた、なぜわらわが人魚だと分かったのだ。陸の人間と海の民、姿かたちは同じだと聞いておる」
「お前は肉が少なくて不味そうだから今は食わない。人間はあんな時間に海に寄り付いたりしない。人魚という海の悪魔に誑かされ深い海に引き摺り込まれると思っている。それに、俺は魔力が高い。目に入れればそれが何かくらいは分かる」
淡々と説明をしていた男とセジョーヌはひとときも絡んだ視線を外すことはなかったが、男の言葉の中に赦されぬ単語を拾ったセジョーヌは突如目元を真っ赤に染め震えだした。
「聞き捨てならぬっ!」
テーブルに両手を突き、ガタンと派手に立ち上がったセジョーヌはずんずんと男の側まで回り、体の横で拳を握った。裸足であったために音は響かなかったが、靴を履いていれば派手に踵の音が鳴り響いただろう。
「われら一族を悪魔と申すか! なんたる侮辱! 海竜の子孫を愚弄するとは何事ぞ!!」
仁王立ちで声を荒げるセジョーヌに体ごと向き直り、男は頭のてっぺんから爪先までを一通り眺めた。子どもが喚いたところで蚊の食うほどにも思わぬが、姦しいのは迷惑だ。
「俺が愚弄したわけではない。世間一般に言われていることを述べたまでだ」
「わらわは悪魔ではない! 偉大なる海竜様の遺産よ!」
「あい分かった。いいから座ってくれ。俺は喧しいのは嫌いだ」
言葉そのままに手首から上だけを振ってやれば、セジョーヌの体は見えない手により首根っこをつままれ、元いた椅子に着席させられた。今度は首だけではなく、引き摺った踵も痛い。
「なんじゃ、今のは。お主妖の術を使うのか」
「あのなあ、今更。さっき空も飛んだだろうが。そして俺は魔族だと自己紹介までしてやった」
「ふむ。魔族は妖術を操るのだな。用心せねばならぬな」
何やら勝手に頷いている子どものことはもう無視することにし、空になった食器を重ねたらいに浸す。
「何をしておる」
「見て分からんか。食器を洗うんだ」
「洗うとな? しかしこのような容器に浸けておいても魚どもはやって来まい」
「なぜ魚がやってくるんだ」
「魚が来ずにどうやってこれを綺麗にするのじゃ」
噛み合わない会話に、男は自身の胸までにしか届かない麗人の旋毛を見下ろし怪訝な顔をした。麗人は麗人でたらいに入った水をじっと検分している。
セジョーヌの常識であれば、食器を洗う必要などないのだ。生のまま加工しない魚介料理を載せた石皿は、机の上に並べておけば海の生物たちがセジョーヌたちでは食べきれなかった分をすっかり平らげてくれる。そうでなくとも、その辺に置いておけば潮がさらってくれるだろう。それともこのたらいの中には多くのプランクトンでも生息しているのだろうか。
次に水汲みをすると言う男について家の裏に出てみる。茶色いこれは土であろう。思っていたよりも固くて痛い。日に当たった大地は暖かだと義兄は言っていたが、これでは海の中の方がよほど温かい。青々した大地とはなんのことだったのか。青々と言いつつ緑色の大地がただ一面に広がる場所があると聞いていたが、ここではないらしい。独り言を重ねていれば、井戸から水を汲み上げた青年が季節というものを教えてくれた。
「もうひと月もすればこのあたりも春がやってくる。そうすればお前が言っている世界が広がるだろう」
セジョーヌは男の言葉に満足すると、今度は井戸へと近づいていく。冷たい風がセジョーヌの頬を冷やすが、髪を靡かせて歩くセジョーヌは楽しげだ。
「おい、あんまり身を乗り出すな。落ちても拾わない」
「ふむ。随分と深い。この先に水があるのか。潮の香りはせぬようだが」
釣瓶を巧く使い汲み上げた水を、石を重ねて作った洗い場に移しながら男が山を指す。均整の取れたしなやかな体はたったそれだけで男を優雅に見せた。
「その水は山からの水だ。地下を通ってこのあたりを潤す」
「ふむ。山に水があるとは知らなんだ」
「お前、本当に何も知らないのだな。よくそれで生きてこられたものだ」
「ふん。知れたこと。わらわは海の住人。陸のことを知らずとも生きるに事足りる」
「へえ。まあ、確かに外を知らなくても生きてはいけるな、っと」
そう言っていつの間にやらセジョーヌの背後を取っていた男は、底の深い暗闇に落ちぬよう足を踏ん張っていたセジョーヌの両脇に手を差し込みそのまま持ち上げた。右足を軸に体を反転させて子どもを降ろしたのは、今しがた井戸水を溜めた洗い場の真ん中だ。痛いくらいに冷たい水がセジョーヌの素足を凍り付かせる。それは彼の踝(くるぶし)よりも少し高いくらいの深さだったが、彼の声を失わせるには十分だった。
「~~っ!!」
「ちょっとそこで待っていろ」
文句も言えぬうちに、男は裏口から家へと入っていき、セジョーヌが水に慣れぬうちに何やら大きな布を抱えて戻ってきた。それをそのままセジョーヌの浸かっている水場に放ると、セジョーヌは痛みから逃れるためにその布の塊の上へと移動した。
「貴様、なんのつもりじゃ! 心の臓が止まったらどうしてくれる」
「そのときは責任持って食ってやるさ」
セジョーヌの癇癪もさらっと流した男は、自身も袖を捲り水に浸けたそれを手に取り押し洗いを始めた。男の手が見る見るうちに赤くなっていく。山の方から冷たい風も吹いてくる。男の様子から洗濯をしているのだと漸く悟ったセジョーヌは同じようにしゃがんで手を浸けようとしたが、その前に男に止められた。
「しゃがむとそのひらひらした洋服が濡れる。手で洗ったところでどうせお前の細腕では力不足だ。体重を使って踏め」
言われるがまま布を取り敢えず踏んでみると妙な感覚がした。脚に纏わりついてくる布を捌きながら、時折男に踏む場所を指示されつつセジョーヌは生まれて初めて洗濯をした。途中水を替えられたときにはまた例の声にならない冷たさで凍てつく思いをしたが、終わりを告げられたときには薄らと汗をかきセジョーヌは我知らず微笑んでいた。
ロープを張ったそこに水を絞ったシーツと枕を干し、男は大きな樽にまた水を溜めている。セジョーヌは風に揺れる真っ白なシーツを切り株に腰かけて眺めていた。
「おい。そろそろ中に入るぞ」
樽に水を溜め終えたらしい男が迎えに来ても、セジョーヌは同じ姿勢のままほんのりと微笑んで揺らめく布を眺めていた。
男は、それはセジョーヌの寝具だと言った。自分の物は自分で手配しろと言う。驚いて、「置いてくれるのか?」と聞いたとき、男はフンと鼻で笑っただけだった。これはここにいても良いということだろうか。そしてそれは次の満月までいて良いということだろうか。はっきりとしたことは分からないが、ひとまず今日の宿は決まった。
昼食だと言って男が渡してくれたのは朝と同じパンと、汲み上げた水で作ったスープだった。魔族といえば生き血を啜るものだと思っていたセジョーヌには意外だったが、余計なことを口にして自分が餌になるのは御免だったので黙っておいた。
意外と言うならば、男の動きも意外であった。男は魔術を使うと言った。少なくとも浮遊魔術と物質移動魔術が操れることはセジョーヌ自身の体をもって実証済みだ。だのに男は自分が動くのだ。水汲みから始まり、洗濯、炊事、掃除、読書の準備まで、すべてにおいて己を使う。火を熾すのに使うのだと教えてもらった火打石も、随分使い込まれた跡があった。男は魔術を使うことが嫌いなのだろうか。
男にべったりとくっつき、調理過程をしっかり監視見学した昼餉のスープは、あの白いものとは異なりさっぱりとした舌触りだった。相変わらず湯気は不気味だったが、そういうものなのだろう。
静かな食事を終えたあとは特にすることはないらしく、男は日の当たる窓辺で読書を始めた。長い睫の先に泣きぼくろがある。脚を組み瞼を伏せるその様になる景色に感心していたセジョーヌだったが、さすがに丸一日寝ていない小さな体に疲れが出た。大きな欠伸を遠慮なくすると、太い年輪幅の食卓に突っ伏してそのまま寝入ってしまった。
紙を捲る音、火の爆ぜる音、風が窓を揺らす音。男にとって慣れ親しんだ静かな時間が流れる。陽が沈むまでのこの時間が男は何よりも好きだった。
(今日は邪魔がいるが……)
本から顔を上げて食卓へ目を遣れば、艶やかな髪を垂らした美々しいその人が静かに寝息を立てている。
(黙っていれば美しい)
なんとも失礼な感想を浮かべて、男は軽く指を振った。椅子から離れ、宙に浮かんだセジョーヌが仰向けに暖炉前のソファへと運ばれていく。トスンと、物質の重さをわずかに感じさせる程度に静かに置かれたその人の足元を見た男は眉を上げた。
(陸(おか)の上では体が持たぬか)
――セジョーヌの爪先が透けていた。
*
「お主、名はなんと言う」
遅すぎる質問は、その日の就寝前にあった。陽が沈み、夕餉を作ると言った男の周りをセジョーヌがチョロチョロとついて回り、昼と同じように質問攻めにし、初めて口にした干し肉をろくに噛まずに喉に詰まらせ、初めての風呂に「わらわを煮て食らう気か!」と憤慨し、騒いだ挙句に脱水症状を起こし、貸した着替えが可愛くないと文句を言い、漸く男も湯を使い終えて就寝の準備に入れたところだ。
男はこの迷惑な客人を殺してやろうと数度本気で指を動かしかけたが、全く悪気のない眼を見てしまうとあと一回チャンスをやろうと、終わってみれば結局一日殺意を殺して過ごしてしまった。長い人生だ。そんな日があっても良いだろう。
そしてセジョーヌには殺してしまうにはいささか勿体ないと、その気を躊躇させるだけの美貌があった。魔族は総じて見目麗しい者が好きだ。魔力が強ければ強いほど自身を美しく魅せることができる。顔の造形はどうしようもなかったが、肌の輝き、髪の色艶は人間の貴族が財力を用いて自らを着飾るように、力のある魔族も余裕のある魔力は自身のプライドのために使った。美しさは強さの証であった。
「わらわはセジョーヌじゃ。お主、名はなんという」
昼間干したばかりのシーツをソファに乗せてもたつく。短い腕を考えもなく動かすせいで、一向に布は広がらずに皺だけが増えていく。どうにも要領の悪いセジョーヌに変わって男が寝具を整えてやった。すでに枕と毛布も渡してある。昼寝をして眠気が飛んでいるのか、セジョーヌはソファの上に座ったまま、ベッドに横臥し本を読む男に体を向けていた。
隣家はこの丘を下った場所にある。人里離れたこの家からは町の街灯も見えず、窓の外はただただ暗い。今日は雲が多いらしい。
「魔族に名を明かすか」
文字から目は離さずに男が低く笑う。
「不都合があるのか」
「名は魂を縛る。魔族と真名の交換をするということは生命をともにするということ」
「ふむ。そうするとどうなる」
男は黙った。生命をともにするということは、生涯唯一無二の伴侶として魂の契約を結ぶということだ。違えればその命を持って償うため、血の契約とも呼ばれる。だから魔族は、たとえ小さな子どもであっても生まれたときから知っている己の名を親にも明かすことはない。
しかしその契約の意味。改めて具体的に聞かれると言葉に詰まる。既に契約を結んだ友人はそのときになれば分かると言っていたが。
「子を為す」
伴侶となって初めて子を為すことができる。どの生き物も同じ子孫繁栄のための繁殖行動だ。
セジョーヌは首を傾げた。艶やかな髪が肩を撫でる。婚姻を結ぶということか。人魚も婚姻は契約である。海竜様に誓うのだ。生涯互いを愛し続けますと。セジョーヌの姉と義兄のように。それはセジョーヌの憧れでもあった。
「結婚する相手にしか名を明かさぬということかの」
それでは軽すぎる気もした。なんせその契約は命を懸けるものなのだ。それでも、男は答えを持ち合わせていなかったので曖昧に頷いた。
「ふむ。では仕方ないの。しかし、名がないのは不便じゃ。わらわは紅――コウと呼ぶぞ。お主の瞳はほんに美しい。世界一はわらわの姉上じゃが、お主も負けてはおらぬ。いや、負けておらねばならぬのか? とにかくお主のその眼がわらわは好きじゃ。ん? 気にいらぬのか」
セジョーヌが傲慢が過ぎる己の発言に相槌を打っても男は無反応だった。セジョーヌの位置からは窓を背にした男の顔は逆光になっており、その表情を窺い知ることはできなかったが、男は口元だけで嗤っていた。満足げに微笑む愚鈍で姿だけが美しい麗人にか、魔族に名前を付ける豪胆さにか。はたまたこんなときにまで発揮されるシスコンぶりにか。他種族の厭う紅い眼を好きだと言い切った無知さにか。
「いいや、俺の幼名と同じだ」
こうして、人魚と魔族の奇妙な同居生活が始まった。
*
朝起きてから夜寝るまで、男の生活は毎日同じことの繰り返しだった。人間の生活に合わせているのだと言う。
人間とひと口に言えども、人種や国、職業の違いによってその生活スタイルはぐんと変わるが、男はその中でも樵や猟師を選択していた。手持ち金が足りなくなったときにだけ山に入り、木や獣を狩って町に売りに行く。そうして手に入れた金銭でパンを買ったり、必要な雑貨、衣類を揃えたりするのだと話した。
「魔族とは意外と真面目なのだな。すべて魔術で済ますこともできるのではないか」
「そういう奴もいる。だが俺は暇つぶしにここに来ている。魔術を使い時間短縮していたのでは意味がない」
「ふむ。苦ではないのか」
「苦だったらはなからしない」
人の世で暮らすためには擬態も必要だ。役場で金銭のやりとりをするときに人として軽口を叩いてみたりもする。それでも元来無口なこの男は、ともすれば数か月口を開かないこともあるのに、セジョーヌと会ってからのこの数日はひどく滑舌だ。今日も朝一の水汲みをしながらセジョーヌの質問に答えていく。一度セジョーヌも「わらわにもさせて賜もれ」と水汲みに挑戦したのだが、彼の腕では水の重さに耐えきれず、釣瓶に体を持っていかれそうになった。それ以来、セジョーヌは井戸と距離を取っている。
セジョーヌが半狂乱に陥りながら喚いた言によれば、水の入った瓶にぐんと引っ張られ、臓腑すべてが飛び出す思いをしたらしい。ガクガク震えるセジョーヌに対し、男はそれ以降彼の聞き分けが悪いときには、「井戸に落とすぞ」と脅している。よほど怖かったらしく、効果は覿面(てきめん)だった。
「そのひらひらしたものはなんとかならないのか」
洗い場にしゃがみこみ束子で鍋を洗いながら、何度も落ちてくる袖口のフリルにセジョーヌが苦戦していると、樽を抱えた男が寄ってきた。その手には三十センチほどの麻の紐が三本握られていた。そのうちの一本でセジョーヌの髪を括ると、残った二本で両袖を彼の二の腕のあたりに縛り付けた。少々乱暴に髪の毛を結わえられたその紐に指を添わせたセジョーヌは、くすぐったさに笑った。
「大体お前、男だろう。なぜそのようなフリフリキラキラした格好をしている」
ひっくり返した樽の上に腰かけた男は全身を黒で纏めており、色があるのは眼と同じ紅玉のついた飾り釦くらいだ。
片や洗い終わった重たい鍋を濡れた腕で持ち上げて、肩幅に足を開いて踏ん張っているセジョーヌは、中世のお坊ちゃんが身に纏っていたようなフリルのシャツにふんわりとしたかぼちゃパンツをひざ下で縛っている、白と深緑を基調とした上品なお洋服だ。そこに緩やかなくせのある柔らかい髪と美々しい顔立ち、細い手足と、全体的に少年の印象ではない。セジョーヌの出で立ちは、まるで良家のお嬢さんが田舎に避暑にでも来ているように見えるのだ。あくまでも黙っていればの話だが。
「その上、自身をわらわと呼ぶ。お前、命でも狙われているのか。昔、滞在した国で知り合った奴にいた。王位継承争いから逃れるために女のふりをして生きていた王族が」
問いかけながら男は一瞬表情を歪めた。もしかすると悪いことを聞いたかもしれない、そんな表情にも受け取れた。実際は追われる身であれば面倒だという、自分への被害を煩っての渋面だったがセジョーヌは好意的に受け止めた。
「コウは人が良いの。心配無用じゃ。わらわはそんな大層な事情は抱えておらぬ。物心ついたときにはこうだったのじゃ。ずっと姉上の真似をしていたらしいからの。随分と愛らしかったと聞いておる。服装はこれでも考慮したのじゃ。わらわは美しいドレスが好きだったのじゃ。そんな目で見るでない。昔の話よ。今は男がドレスはおかしいと知っておる。だからこうしてズボンを履いておる」
浅く膝を曲げてお辞儀をして見せたセジョーヌに、男は今度こそはっきりと表情を歪に動かして、彼の頭の先から爪先までを再度見やった。
「人の好みをどうこう言うつもりはないが。お前はその召し物を気に入っているのか」
「そうじゃ。似合っておろう」
「たった数日でそれだけ汚れているんだ。帰るころには目も当てられなくなる」
「ふむ。確かに。……おかしいのお。これは上質の反物で織って貰うた一張羅。なんせ姉上の婚礼の儀用に拵えたものなのじゃ。こんなに早う傷むとは残念じゃ」
「こんな田舎で上等な着物を着ていること自体が場違いだ。そのような格好で山に入ってみろ。獣に出くわしたとき、その無駄にボリュームのある着物がお前の命を奪うだろう。草木を掻き分けて果物を採ってくることさえ適わない。綺麗に着飾っても、腹は膨れない」
セジョーヌは土で汚れてしまった光沢のあるシャツをつまんで首を傾げた。人魚界はドーム状の結界で覆われており、人魚たちはみな優雅にふわふわと平和に暮らしている。食べて、寝て、子孫を残す。光り物が好きで、魔力の宿った泡で編むドレスを身に纏い、歌を歌い、優しく語り合う。ただそれだけの世界だ。古より変わらない。退化も進化も望まない。ありのままに流れのままに。
セジョーヌもそうだ。だから男の考え方は彼にとって非常に面白い。
「ふむ。お主は物知りよの。わらわの師はそのようなこと申しておらなんだ」
「師がいるのか」
「うむ。わらわが唯一姉上に勝てるものこそ琴の音よ」
「芸事か。お前たちは本当に裕福なのだな」
「お主は楽器はせぬのか」
「魔族は力がすべてだ。音を楽しむことなどしない」
「ほう。寂しいのお……」
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