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 夜も静まった深い闇の世界に、黄金色の月とインディゴの海が存在していた。遠くに見えるは人間どもの町の灯り。風も穏やかなこんな夜は、本当に静かだった。  月にも照らされぬ岩陰に、二つの影が存在していた。闇と仄かな発光体。闇は先ほどから一筋も乱れることなく、淡い光を見つめていた。 「……っく。っく……。わらわはほんにっ、ほんにっ……」  光が不安定に揺らめくのは、それが小さく、また大きく喘いでいるからであった。 「ほんにっ……想うておったのじゃ」  涙に濡れたその声は疾うに擦れており、元の声の名残をわずかに残すばかり。 「あー。はいはい。分かった」  感情を込めたそれに対し返されたのは、熱も含まぬ平坦なもの。 「お前さん、さっきからそればっかりだな。で、結局どうしたいんだ」 「分かってなどおらぬ!」  荒げた声とともに噛みつかんばかりに上げられたのは、文字通り輝きを放つ鮮やかな顔(かんばせ)。長い睫に縁どられた大きな瞳が何よりも目に印象的で、見る者をはっとさせる。緩やかなウェーブがかかったプラチナブロンドの髪は、透き通るように色素が薄い。白く透明感のある艶肌はまるで幼子のよう。――いや、確かに造作は息を呑むほどに美しいがそれはまだ子ども。感情露わに相手を睨みつける、十七歳ほどの反抗期の子どもそのものであった。  対し、波に削られた粗い岩に緩くしゃがみこみ、肩から上部を水面に出し喚きたてる子どもに煩わしさを隠さずそれでも対峙してやっているのは、二十代も半ばを過ぎた男だった。闇を全身に纏ったようなその男はどこまでも静だった。  海に浸かった子どもの体が発している光で、男の顔が闇の中でもぼんやりと見て取れる。町娘などが見ればどこぞの貴族かとはしゃぎたてそうな青年は、長いマントに身を包みただそこに浮かんでいた。そう、青年と岩肌とは僅かほどにしか接していない。普通の人間が爪先の一部だけで自身の体を支えるなどどだい無理だ。  こんな人も獣も寄り付かない暗い海で海面に顔を出している子どもも、この男も、まさしく人外の生き物だった。  子ども――セジョーヌは、今や幻の生き物とされる人魚だ。一見陸の人間と変わらぬその姿はただただ美しい。  人々が国を持たず、野や山で獣を追いまわし、その日その日を懸命に過ごしていた遥か昔は、彼らも陸にて生活していたという。海に潜るのが滅法うまかった彼の種族は、獲った魚や貝と引き換えに生活に必要な住居や器などを買い求めていた。  ときは流れ、稲作が始まり、干ばつへの対応ができるようになり、生活が豊かになるにつれ人は贅沢を求めだした。古来より変わることなく海に愛された彼(か)の一族はその魂に精霊が宿ると言われ信じられていた。実際に精霊の姿を見た者の話を聞いたことがないから、セジョーヌにはそれが嘘か真か判別はつかない。ただ、彼の一族の中に不思議を宿す人間がいたことは確かだった。一部の者だ。成人すると同時にそれが流す涙は宝玉に、流れる髪は輝きを増し、その御髪で織った布は千年の輝きを放ち何ものにも裂くことはかなわない。  そんな歌物語を持つ彼の一族は、次第に王への献上物として、尊厳を傷つけられるようになっていった。選ばれた者は長い髪を奪われ、涙を流すためだけに傷めつけられた。選ばれぬ者は身勝手な罵声を浴びせられ、美しい顔にしか価値がないのだと利用され、やはり深く傷つけられた。  海の子、我らこそは海竜の末裔であると誇り高き一族は、土の上の国を滅ぼし一族ともども海底に沈んだ。海に身を投げたのではない。生きるために場所を移したのだ。そこから、人と人魚との世界が分かれた。 「お慕い申しておったのじゃ……」  何度目かも分からぬその嘆きに男は今度こそため息を吐いた。 「だったら奪えばよかっただろうが」 「馬鹿者! そんなことをしたら姉上がどんなに嘆き悲しまれることか!」  めそめそしていたかと思えば今度は八つ当たりをしてくる。漆黒の男は眉を上げることで不要な争いを避けた。 「姉上はお優しいのだ。わらわを一番にかわいがってくださった。自慢の姉様だ」  その日は、セジョーヌの一番上の姉の婚礼式だった。二番目の姉はすでに嫁いでおり、三番目の姉は表向き勘当されている。セジョーヌは一番上の姉が大好きだった。年老いた両親の代わりに末っ子の面倒をよく見てくれた。いつもついて回った。何事も姉の真似をした。話し方も髪型も服装でさえも。流石に二百歳を過ぎた今はドレスを着るわけにいかなくなったが、それでもつい五十年ほど前までは姉のおさがりのドレスを身に纏っていた。幼いセジョーヌを家族皆で着せ替え人形にしていた名残だ。  小さなセジョーヌは大好きな姉と同じ格好をできることがうれしくて仕方がなかった。性別を意識するほど自我もないころからの遊びだ。そのうちに女装をする日の方が増えていったが、かわいいから良いかと誰も気にしていなかった。姉そっくりの顔立ちに口調に仕草、恐ろしいことに長い年月だれもその不自然さに気がつかなかった。と言うよりも、大らかな一族は末っ子が男であることを失念していたのだろう。――そう、セジョーヌは男である。  百年ぶりにふらりと姿を現した三女の一言によって、周りはセジョーヌが男であることを思い出した。慌てて男子としての嗜みを教え込もうとしたが、三つ子の魂百までと言ったものだろうか、もはや矯正は不可能だった。そもそも本人が矯正されるを良しとしなかったのだ。  その大好きな姉が縁を結んだ。  人魚界に生を受けたものは皆美しい。相手はそんな中でも見目麗しいと定評のある青年だ。領主の息子である青年は地位良し、姿良し、性格良しの三拍子揃っているにも関わらず、青年と言うにはいささか歳を重ねていた。数多ある縁談を断り、彼がそれこそ数百年をかけて口説き落としたのは同じく美貌のお嬢様、今や淑女と表した方がしっくりくるセジョーヌの姉だった。  大好きな姉の晴れの日のために、セジョーヌは心を込めて反物を織った。海の絹で織ったそれは見事花嫁の羽衣となり、姉の美しさを際立たせた。 「なんとお美しい……」 「稀にみる美男美女だこと」  方々から感嘆の声が聞こえる。中には言葉にならずただ美しい一組に吐息を漏らす者もいる。セジョーヌもその一人だ。 (やはり姉上は世界一、いやこの世で一番お麗しい)  もはや素晴らし過ぎて言葉もない。セジョーヌは親族席で姉の弟として生を賜ったことを海竜様に感謝した。  滞りなく式は宴へと変わっていく。そこまでは良かったのだ。セジョーヌは姉マリアーヌの自慢の弟として、姉そっくりの美貌を讃えられながら、祝いの言葉に笑顔で礼を返し祝いの席に華を添えていた。自らもご令嬢からの秋波を浴びつつ幸せに包まれた二人の元へ足を運んだ。 「まあ、セジュ。われの可愛い子。今日はありがとう」  しっとりとした口調と宝石のように輝く緑色の大きな瞳に映っているのは、間違いなく弟への慈愛だ。セジョーヌは優雅に腰を折り、美しい貴婦人の手の甲に口づけを落とす。これもこの日のために練習したのだ。姉を喜ばせたい一心で。その効果は絶大だったらしく、マリアーヌは「まあ!」と弟の成長に目じりを下げて微笑んだ。 「セジュ、この衣は君が織ってくれたと言う。見事なものだ。私からも礼を言う」  そんな妻の腰を引き寄せたのは夫となったバーベル公だった。 「セジュ。君の姉上は今日から私の妻となった。必ず幸せにすると誓う。そしてセジュ、君は今日から私の弟だ。遠慮せずに頼りたまえ」  淡い恋心だった。姉からバーベル公の話を聞くうちに自分も好きになっていた。幼少の折よりこんな人とともに生涯を過ごせたら、そう思っていた。そしてバーベル公も姉弟ともに懇意にしてくれた。  ――セジュ、大きくなったね。お前はますます美しくなっていくね。姉上そっくりだよ。  そう言って目の高さを合わせて微笑むこの人に、知識豊富で話も上手いこの人に優しく抱きしめてもらえたら……! 思春期を迎えたころには時期領主様であるこの人に会えるだけで嬉しくてドキドキしていたのに。彼の想う相手は姉だった。セジョーヌが生まれる前からの付き合いだと言う。セジョーヌの想い人が抱き寄せているのは世界一美しい姉様だ。大好きな姉様を好きな人に奪われるなんて、なんということだろう。今日から弟だなんて、昨日までもそうだったではないか。告白もしていないのにだめ押しで振られるとはなんという日だろう。  セジョーヌは堪らなくなった。堪らなくなって、しかし初めての失恋を処理する方法も分からずに、夫婦が他に呼ばれた隙に宴を飛び出した。きらきらとドーム状に輝く人魚の国から飛び出して、脚の力を最大限に使って深海よりぐんぐん上昇していく。セジョーヌが昇った軌跡を、光の粒子が螺旋状に描いて昇っていく。眉間に皺を寄せ歯を食いしばり、セジョーヌがボロボロに崩した顔を出したのは海原の真ん中だった。スポットライトのように月がセジョーヌを照らしだす。こんなところで泣いて堪るかともうひと泳ぎし、岸にほど近い岩場で出会ったのが、何者かも知れぬ精悍な青年だった。 「つまりは家出なんだな」  失恋話なのか過度な姉弟愛なのか、判断に難しい話を聞き終えた男はやはりため息を吐いた。 「そのような話はしておらぬ」  長く話したことで体が乾いたのか、その細い肩にパシャパシャと海水を掬いかけながらセジョーヌは鼻を鳴らした。 「その上反抗期か」 「……」  次いでは無視だ。  セジョーヌは甘やかされて育った。なんと言ってもセジョーヌが生まれたときには姉たちはすでに成人していたのだ。人魚の民は成長が人より遅く総じて高齢だ。二世紀半以上も歳の離れた弟だ。それこそ厳しくされることもなく、蝶よ華よととにかく愛でられた。そのセジョーヌがこれだけ泣いているのだ。常であれば周りの大人たちは彼の憂いを払い笑顔を取り戻すために、有体に言えばご機嫌取りに必死になる。それこそ彼のプライドを刺激しないために、ご機嫌取りであることを悟らせないようにも心を砕く。そして残念なことにセジョーヌは非常に切り替えが早い。興味の対象を移してしまえばあとには引かない。それなのに、目の前のこの初対面の男はただただ煩わしそうに話を聞くだけなのだ。慰めることも楽しい遊びの提案も、甘いお菓子も献上しない。 「気は済んだか。俺はもう行くぞ」  男はそっぽを向いたままの子どもの頭頂部をしばらく眺めていたが、これ以上言葉を重ねる様子はない。涙も止まり、鼻水を啜る音――神話にまで謳われる人魚が人と同じく鼻水交じりに泣き崩れるなぞ知りたくもなかった、も聞こえなくなった。ここに留まってやる理由はない。水平線の向こうに見えるのは太陽だろう。男は長時間不自然な体勢をとっていたことなど関係ないかのようにスマートに立ち上がり飛び立とうとした。――がしかし、その体は重力ではないものによりその場に縫い止められた。  ブーツからはみ出たズボンの裾口をセジョーヌの細い指が握りこんでいる。男が軽く足で払おうとするも離れない。 「あのなあ、お嬢ちゃん。もうじき夜が明ける。お前が『そこの者、わらわの話を聞いて賜もれ』と俺をここに縫い付けたとき、月は天にあった」  青年の骨ばった長い指が天上を指さす。 「それほど長い時間、俺は親切にもお前の言うとおりにしてやった。人魚を見るのは初めてだったし、暇つぶしになればいいかと思ったがそれだけだ。人魚の涙が宝玉だというのも流言だと分かった。お前に価値はない。海に戻れ」  こうまではっきりと拒絶されれば、常識を持ち合わせている者であったならば速やかに立ち去ったであろう。しかしセジョーヌは違った。 「ふん。わらわは帰らぬ。帰ったところで姉上はおらぬ。それに、帰るすべを持たぬ。今宵は月が欠けるであろう。満ちているときにしか門は開かぬ。我が祖先が地と海とを分かつたときよりの決まりじゃ。そしてわらわは女ではない。男じゃ」
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