たべもの

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
「おなかすいた」 「お腹空いたってよ」 「これたべていい?」 「これって?」  振り返ると私の腕に噛みつこうとしている……これは誰? 違うこの子は私の子ども。どうして腕に噛みつこうとしているの。 「待って、だめだよ。お母さんの腕は食べ物じゃないの」  言いながら夫の方に目をやる。お腹空いたってよって言ってきたのは彼のはず。違う、待って、全部違う。私の家族は実家にいる両親だけで、夫も子どももいない。それにここは一人暮らし向けのアパート、こんなところに三人で暮らすなんて狭すぎる。だから私に同居している人間なんていない。それなのにどうして。 「ねえ、たべてもいい?」  どうして声が聞こえて、どうしてそれが子どもと夫の声に聞こえて、どうしてそれに疑問を持たない時間があったの。違う、声だけじゃない。夫は声だけかもしれないけれど、子どもは少なくとも口が、大きく開いて私の腕に噛みつこうとした口がある。入られた、いつの間にと思うけれどもきっとこれにそんな常識は通用しない。  恐怖に急かされた思考が働く。思考だけしか働かない。動けない。逃げたい。私を食べようとしているこれから逃げたい。 「ねえ、おかあさん」  何を怖がっていたのだろう。思考が落ち着いていく。 「ちょっと待ってね、すぐに何か食べるものを用意するから」  この子の食べるものを用意する。さっきは何を慌てていたんだっけ。落ち着いた思考は一瞬前の焦りの原因の記憶も消してしまったみたいだ。台所に立って、今の時間なら食べても問題なさそうな程度のおやつを皿に盛る。 「お待たせ」 「おそいよ」  そう言いながら我が子は口を大きく開けて私の頭を飲み込む。がつん、という音とともにほとんどの感覚はなくなって思考はぼやけていった。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!