楽しみな時間

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楽しみな時間

「おなかがいたい」 ママの声がリビングに響く。 夜ご飯の準備をしていたママが突然おなかをおさえてしゃがみこんだ。シンクには蛇口の水滴が落ちる音。ぽたんぽたんという音がきこえる。 おなかすいたなあって思いながらゲームをしていた手をとめて、あたしはママのところに駆け寄った。 「どしたの? ママ大丈夫?」 「……くすり。くすりとって……」 声が小さくて、今にも消えそうなほど。額に汗が浮かび、ぎゅっと眉を寄せくちびるを噛んでいる。白い顔。 「ねえ、薬で治るの? 救急車って何番おせばいいの? よんでもいいの?」 こんなとき救急車をよぶの? どうすればいいの? 薬でいいの? 「わかん、ない。でもおくすりのめばなんとか」 消え入りそうな声でママが首をふる。 ママが指さす方向に薬局の袋があった。 なかにあった丸い薬を出してママにもたせる。 するとすぐに薬を口にして、あたしが渡したコップで水をたくさん飲んだ。 ママはどんどん丸まっていく。痛いところを隠すみたいに。 薬、すぐきかないの? はやくきいてよ。 思わず口にしてしまう。はやく。はやく。 そう思って、気がついた。 救急車じゃなくて。 「パパに電話、してもいい?」 * ママが頷くより速くあたしはママのケータイを開いた。 るるるる、るるるる、るるるる、るるるる、るるるる、るるる パパが出てくれない。仕事中だ。 でもずっと電話を鳴らし続ける。 気持ちでは100回くらい鳴らしたころ、やっと電話をとる気配がした。 「もしもし? 祥子さん? なあに?」 呑気な声にあたしはがくりと肩が落ち、ため息がでた。 でもそんなことを文句言っている場合じゃない。 ママを見ると、声もなくキッチンの床にうずくまっている。 さっきより、ずっと苦しそうに。 薬も飲んだのに。 「パパ? ママがおなか痛いって!!」 「え? ママが? 何か変なモノ食べたの?」 あたしの言葉が通じない、異星人と喋っているような気持ちになる。 そんなことを言って欲しいんじゃなくて! 「はやくかえってきてよ、ママ苦しそうなの! お薬きいてないよ」 「今日は仕事まだ帰れそうになくて」 「もーう! ママがかわいそうでしょ!」 悪びれない声でパパが言うから、あたしはついつい大声を出してしまった。 「愛理」 そのときママがおなかを押さえながらあたしを呼んだ。 「いいの。パパ忙しいんだから、呼ばなくていいの。愛理がおなかをさすってよ」 「いいの?」 ケータイを放ってママの横に座り込む。おなかの下のほうの、痛いという場所をさする。 ぎゅっと寄っていたママの眉がすこしだけ緩んだ。 「たぶん、だいじょうぶだから」 「たぶん、ってそれでいいの?」 「たぶん」 答えになっていない答えを聞いて、あたしは何となく深呼吸した。 パパが役に立たないし。 あたしが役に立たないと、だめだ。 必死でおなかをさすり続ける。 「ママ」 「なあに?」 さっきよりいくらかましになった声で返事をしてくれた。 でもまだ調子が悪そう。 薬がきいてないのかも。 「ママは、パパがあんなふうに冷たくて平気なの?」 ママのおなかをさするあたしの手にそっとママの手が重なった。 「平気じゃないけど。でも、愛理がいてくれるしそれに」 「え?」 「パパってそんなに冷たいわけじゃないし」 夫婦ってよくわからない。 いつもパパとママを見ていて思う。 よくわからなくて、でもそういうのが夫婦なのかなとも思う。 「冷たいよ。帰ってこないんだよ?」 「だいじょうぶ。すぐ帰ってきてくれるわよ。このおなか痛いのよくあることだってパパも知ってるから。おくすり飲んだし、たぶんだいじょうぶ。それに愛理がおなかをさすってくれたし。ありがとね」 こんなおなかが痛そうなことがよくあるんだ。 あたしは初めてみた。 きっといつもはパパがいて。あたしにはわからないようにしてくれていたのかもしれない。 * 「ただいまー」 それから30分くらいたってパパが帰ってきた。 案外すごくはやく帰ってきたことにあたしは驚いた。 でもママは驚いた顔もしなかった。本当にはやく帰ってくるって信じてたんだ。 すくっと立ち上がるママの姿を見て、もう大丈夫そうかもと思う。 「おかえりなさい」 パパにそれだけ言って、夜ご飯の準備を再開する。 さっきの痛そうな様子が嘘みたいに消えて、シャキシャキしている。まるで何もなかったみたいないつものママ。 そのママの作るハヤシライスのいい匂い。トマトをたくさんいれるのがママのハヤシライス。その匂いで、おなかがすいていたことを思い出した。 「ママ、あたしおなかすいたよ」 「パパもー」 「もうちょっと待ってね。パパからお土産をもらってから」 「え? あるの?」 パパはぽりぽりと頭を掻いて目をあさっての方向へむけた。 「ママはなんでもお見通しなんだな」 お菓子の箱を受け取りながらママはふふんと笑った。 「パパの考えなら大体はわかるわよ。おなかが痛い私へのお見舞いのお菓子でしょ?」 「ん、そだね。おなかすいたよ」 「それもわかってるわ。でも私はおなかが痛いんだけど」 「おなか、まだ痛いの? いつもの腹痛? 薬飲んだよね?」 「まだちょっと痛いの。でもお薬飲んだし。だからお土産は明日食べるね? ケーキじゃないもの明日でいいわよね」 少しだけパパを小突くような仕草をしてから、ママはおなかをさすった。 おなか、本当によくなってるみたい。顔色がほんのりピンクに戻ってる。 薬ってよくきくんだ。 いやちがうか。 パパ自体がママのお薬のうちの一つなのかも。 ママにはとてもよくきく、お薬の。 「次におなか痛くなったらもっと早く帰ってきてくれないと、ごはん用意しないわよ?」 「ええ、それはこまるなあ。一日仕事してるとおなかすくんだよ。っていうかママのごはんが食べたいんだよ」 泣きそうな声でパパが言った。あたしはふと湧いた疑問を口に出す。 「もしかして、パパ。仕事早退してきたの? すごくはやかったけど」 「しかもタクシーで帰ってきたんでしょ? ほんとにはやかったもの」 「お見通しだなあ」 パパが案外がんばるマンで。 あたしはちょっとびっくりした。 ママのことちゃんと心配してる。 冷たくないって言ってたママの言葉、うそじゃなかった。やっぱり夫婦ってよくわかんない。 「いつも早く帰ってくればいいじゃない」 「それはこまるわ」 ママが大声で制止して、あたしとパパは顔を見合わせた。 なんともいえない表情のパパがなんだかかわいそう。 「いいのよ、いつもは遅い時間におなかすいたーって帰ってきてくれたらいいの。ママの料理が倍くらいおいしく感じるでしょ?」 「たしかに」 「おなかすかせててくれなきゃこまるのよ。ママの料理、普通の味だし」 ふふっと笑ったママは、もうおなかの痛いママじゃなかった。 パパっていう薬を手にしたママだった。 よかった。 あたしはほっとした。 * 学校から帰って夜ご飯まで、少し長いあいだ。 おなかすいたーって思って待っている。 ちょっと時間のかかるママの料理。手元がもたもたしてるから? でもあたしにはすごくおいしいの。 おなかすいたーって待ってる時間もあたしには。 すごくすごく楽しみな時間なの。
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