13の刺し傷

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「では______」と、目の前に座る友人がシャンパンのグラスを目の高さまで上げる。 「佐々幸守の最新作であり超大作に」 幸守はよく冷えた自分のグラスを取って言い返す。 「老境にひと足早く近付いた親友に______」 二つのグラスが触れ合って、風鈴のような涼しい音が鳴った。この二人の乾杯は、時折こうして皮肉の応酬という形をとる。 何に対しての乾杯なのかというと、元刑事で推理作家の佐々幸守の最新作であり、全400ページ超えの超大作の完成と、彼の友人である左門寺究吾の30回目の誕生日を祝してのことである。場所は、ホシミノにある小さなフランス料理店。この店で、上手い料理と酒に酔いしれながら互いを祝い合った後、ハイツベイカーに戻って朝まで飲み続けるのだろう。これは素晴らしい予定だ。 「明日は平日だってのに、気楽なもんだな」 左門寺はシャンパンを一気に飲み干して言った。作家である幸守にとって、平日も休日も、ましてや祝日も区別がないのは当然のことだが、左門寺だって同じであった。 「お前には“切り札”があんだろ?」 左門寺はこの市内にあるD坂大学の心理学部の准教授である。専攻は、『異常犯罪心理学』。彼の講義がないのは基本的に金曜日なのだが、都合が悪ければ“休講”という切り札があった。そして、左門寺がその“切り札”を使う頻度が多いことは幸守が一番よく知っている。 「次こそ“江戸川乱歩賞”狙いか?」 左門寺は実につまらないことを問いかけてきた。 「狙えるわけないだろ。俺みたいなペーペーが」 「そうかな。君が推理小説を書き始めたのはたしか、高校生の頃。数えてみればもう10年以上も書いてるじゃないか。まったく狙えないものじゃないはずだろ」
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