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イベント
「皆様、本日は『ホーラ・ウォッチ』新作モデル発表イベントにようこそお越しくださいました」
バレンタインデーが終わったばかりの2月中旬。
大きなショッピングモールの中央、5階まで吹き抜けになったイベントスペースに、瞳子の澄んだ声が響き渡る。
ステージの下手寄りに立ってマイクを握る瞳子は、にこやかに微笑みながら集まった観客に語りかけた。
「スタイリッシュに、そして正確に時を刻む大人の女性の憧れの時計ブランド『ホーラ・ウォッチ』。新作モデルはこれから訪れる春にぴったりの…」
そこまで話した時、右耳に着けているインカムからしゃがれた声が聞こえてきた。
『あー、えーっと、間宮さーん。ちょっとね、谷崎さんが準備に時間かかっちゃってるの。もうちょっと待っててくれる?』
イベントが始まる前に打ち合わせをした『ホーラ・ウォッチ』広報担当の50代の男性。
確か名前は沼田さんだっけ?
そう思いながら、瞳子はセリフを続ける。
「本日はスペシャルゲストとして、ホーラ・ウォッチのイメージキャラクターを務める女優の谷崎 ハルさんをお迎えして…」
すると再度イヤホンからしゃげれ声が飛び込んできて、瞳子は意識を半分耳に傾ける。
『間宮さーん、えっとね、今メイク直しをしてて、そうだなー、あと少しで出られると思うんだけど』
あと少しって、どのくらいよ?!と心の中で突っ込みながら、表情は崩さず口角を上げてゆったりと観客を見渡しながら話し続けた。
耳からの情報を把握しながら、何事もないかのようにしゃべり続けるのはなかなか難しい。
「…谷崎 ハルさんから新作モデルの魅力をたっぷりとお聞かせ頂くトークショー、更にはプロジェクションマッピングによるスペシャルコンテンツもご用意しております。どうぞ最後までごゆっくり…」
このセリフの後、谷崎が登場する予定だが、スタンバイはまだだろうか?
『間宮さーん、あのね、もうちょっと…』
その時、瞳子の正面のステージ下で客席の方を向いて立っていたスーツ姿の男性スタッフが、くるりと瞳子を振り返った。
瞳子と目が合うと右手の人差し指を耳元でクイッと動かしながら、イヤホンを外せというジェスチャーをする。
瞳子が右耳に着けていたイヤホンを外すと、その男性は両手で三角を作ってから左右に引き伸ばすジェスチャーをし、右手で自分の腕時計を指差してから指を2本立ててみせた。
(2分伸ばせってことね)
瞳子は頷くと、司会原稿の順番を変えて先に注意事項の説明をすることにした。
「イベントに先立ちまして、皆様にお願いがございます。このイベントは写真撮影は自由となっておりますが、動画と録音はお控えください。また、他のお客様が写真に写り込まないようご配慮をお願い致します。SNSへの投稿も大歓迎です。ハッシュタグをつけて素敵なお写真と共に、このイベントを多くの方にシェアして頂ければ幸いです」
ここまで話しても、2分には足りない。
瞳子はイベントスペースに並べられた椅子に座る観客や、吹き抜けの上階からこちらを見下ろしている買い物客にフリートークで話し始める。
「本日はカップルの方もたくさんいらっしゃいますね。お二人でショッピングを楽しんでいらっしゃるでしょうか?これからお披露目する新作の腕時計は、恋人にプレゼントするのにもぴったりな、女性の憧れが詰まったモデルとなっております。もうすぐやってくるホワイトデーの贈り物にいかがでしょうか?ぜひイベント後に3階の『ホーラ・ウォッチ』のショップにお立ち寄りください。新作をお買い求め頂く際、イベントを見たと伝えてくださった方に、イニシャルなどの刻印が無料になるサービスをご用意しております。本日限りのサービスですので、どうぞお見逃しなく」
原稿ではもう少し先に入れてあったセリフだが、今話しておいても問題はないだろう。
あとでもう一度伝えることにして、瞳子は観客の反応を見た。
嬉しそうに顔を見合わせるカップルや、彼に可愛らしくおねだりするような仕草の女の子もいる。
微笑ましさに瞳子も思わず笑顔になった時、先程の男性スタッフが右手でOKのサインを作ってみせた。
瞳子は頷くとマイクを握り直してスッと深く息を吸う。
「それではいよいよ谷崎 ハルさんの登場です。皆様、大きな拍手でお迎えください。どうぞ!」
ステージ中央の大きなパネルのうしろから、綺麗な顔立ちのスタイルの良い谷崎 ハルが登場する。
上品な雰囲気と容姿の美しさから、巷の女性が選ぶ【生まれ変わったらなりたい顔】のナンバーワンなのだとか。
客席から大きな拍手とうっとりするようなため息が聞こえてきた。
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