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 神城柊一郎(かみしろしゅういちろう)は院長室のデスクで、術式の手順を入念に確認していた。  前頭葉切除術。  1949年にノーベル生理学賞・医学賞を受賞した術式で、ポルトガルの神経科医、エガス・モニスが開発した手法だ。  モニスの患者の多くは、手の施しようがない重度の不安障害を抱えていた。患者の不安を取り除く術を模索していたモニスは、ある日の学会で、イェール大学の生理学者、フルトンとヤコブセンがチンパンジーに施した、前頭葉切除手術を知った。  人間も含め動物の記憶は、ひたいのすぐ裏にある前頭葉が司っている。フルトンとヤコブセンは実験施設で、チンパンジーに威嚇行為を繰り返し、恐怖心を植えつけた。そのうえで、そのチンパンジーから前頭葉を取り除くと、恐怖の記憶がなかったかのように目の色から怯えが消え去り、まるで幸福を謳う宗教の信者のように穏やかになった。不安を物理的に取り除くことに成功したのだ。  モニスは死体の脳で術式を練習し、地元の精神障害施設に収容されていた六十三歳の女性にオペを施した。頭蓋骨の両側にドリルで穴を開け、前頭葉にアルコールを流し込み麻痺させる、モニス独自の方法だったが、女性の不安障害と妄想がなくなり治癒に至った。 その後もモニスは数名の患者にオペを行ったが、治癒に至る患者もいれば、そうでない者もいた。  さらに術式に改良を加えたモニスは、パリから取り寄せた手術器具を使うことで、術式を完成させた。細く長い棒状の器具で先端はワイヤーが輪になっている。このワイヤーでリンゴの芯をくり抜くように、前頭葉の狙った部位を取り除く方法だ、これに自信を得たモニスは、二十人の患者に手術を行い、一定の成果を得た。この手法は米国で広がり、その後四十年で二万件以上の手術が行われた。  神城はモニスの術式に、さらに独自の改良を加えた。頭蓋骨にドリルで一箇所だけ、ペットボトルのキャップ大の穴を開ける。その穴にワイヤーを入れ、前頭葉の狙った一部を正確に掬い取る方法だ。脳の3Dスキャン技術の進化で、切除箇所をピンポイントに狙える。神城は死んだ豚の脳で繰り返しシミュレーションを行い、手順を身体に覚え込ませた。  いよいよ生きた患者に行う段階だったが、ひとつ問題があった。神城総合病院は父が経営しており自分のものではない。ましてや、前頭葉切除はいまや禁忌の手術だ。父の許可が下りるはずがなかった。  しかし、その父が心不全で急死したことで、病院が自分のものになった。 神城は準備を進めた。専用の手術室を増築し、脳外科手術に必要な機材を全て揃えた。  ただし、病院の入院患者に対して行うのは、看護師の目もあり危険だった。 だが、生きた人間で練習することもなく、大切な妹の脳にメスを入れることはできない。  そうしたある日、大久保病院での精神科学会の会合終わりに、大久保公園で若い売春婦を見かけた。立ちんぼと呼ばれる彼女らの多くは家出少女で、捜索願いを出されていない子も多いという。さらに、DVやネグレクトで心の傷を抱えた子もいると知った。検体として申し分なかった。  神城は大久保公園で立ちんぼに声をかけた。寧々(ねね)と名乗る猫好きの少女と何度か性交し距離を縮めた後、寧々を手術室に連れ込んだ。全身麻酔をかけ、三十分ほどで手術を終えた。もちろん、前頭葉の一部が無い寧々は、自分が何をされたのかを憶えていない。  幼いころから虐めに苦しんでいた寧々だったが、術後は見違えるように明るくなった。  手術は成功したかに思えたが、ときどき酷い頭痛と吐き気がすると訴えるようになった。神城が原因を探っているうちに、寧々は飛び降りて死んだ。  その後に手術をした由希菜も美優も似たような症状を訴え、自ら命を絶った。  だが、ここで止めるわけにはいかなかった。  ある日の学会終わり。大久保公園で次の検体を探していたとき、レイカという女と知り合い人身売買の契約を交わした。妹のためなら二千万など安いものだ。  いまから手術を行う竹下瑠奈は、まるで妹と同じだった。左上腕に、いくつものリストカットの痕がある。彼女の深い心の闇を取り除くことが叶えば、次は妹を救ってやれる。  神城は、パソコンのモニターに映した瑠奈の脳の3Dモデルをマウスで回しながら、入念にシミュレーションを繰り返した。
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