二・泉へ

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二・泉へ

「この山は何度か来たことがあるよ。いい薬草が採れるんだ」 「俺も同じです。村の医者の手伝いで小遣い稼ぎですけど」  下り坂はつい足が速くなる。地面は踏みならされて平らだったため転ぶ心配はなさそうだが、(らん)()は足に力を入れて用心した。後ろからついてくる星舟(せいしゅう)もときどき小石を蹴飛ばしながらゆっくり歩いている。  薬草採りという共通の話題は藍夏の緊張をほぐしてくれた。 「藍夏、薬草の違いがわかるか? 止血用と毒草で似たような見た目のものがあるだろう」 「シケツ草は最初に教えられた草です。葉のギザギザが鋭いか、丸いかの違いですね」 「君のところではシケツ草と呼ぶのか。そのまんまだな」 「使い方がわかっていれば本当の名前で呼ばなくてもかまわないんです。星舟はあの長ったらしい名前で呼んでるんですか?」 「うん、植物の分類に厳しい師匠がいてね。あれは……」 ざざざっ! 「うおっ」  藍夏の後ろで驚きの声が上がった。何だと思って振り返ると、木の陰から茶色のかたまりが飛び出てきたところだった。  タヌキだ。素早く二人の前を走り去っていき、草むらへ突っ込んでいった。家族と離れて迷ったのだろうか。タヌキのふさふさのしっぽがさよならを言うように空中で揺れた。それを見送る前に藍夏は星舟のそばへ駆け寄った。 「痛……」 「星舟」 「枝で切っちまった。運がわるいな」  星舟が驚いてのけぞった勢いで、近くまで伸びていた木の枝が腕をかすめたらしい。星舟はいまいましいと言わんばかりに枝をポキンと折って投げ捨てた。  着物をわずかに裂いて上腕に引っかき傷ができていた。深くはないが、血がにじんでいる。 「すぐ洗わなきゃ」 「たいしたことはない」  星舟は軽く言ってのけたが、痛みでしかめっ面になっている。  藍夏は腰にさげていた竹筒を出して残しておいた飲み水を流してやろうとした。が、一瞬ためらった。口をつけた水を傷に触れても良いものか。  迷った末、トゲも刺さっていないようなのでとりあえず手ぬぐいで腕を巻き、止血をこころみた。星舟は素直に腕を差し出して、藍夏の手元をじっと見つめていた。 「ありがとう、藍夏」 「小さい兄弟がよく転んでケガをするんです。こういうのは慣れっこですよ」 「面倒見のいい兄は立派だな」  正面から褒められてしまい、藍夏は照れ笑いなのかにやにやしているのかわからない表情になった。 「俺は薬草を集めることしかできません。薬を(せん)じる知識があればよかったんですけど」 「今日採った薬草は大事に持って帰りなさい。私より必要としている人がいるだろう」 「うん……」 「心配か?」  そりゃあ、まあ。藍夏が返事をしようと顔を上げたとき、星舟と目が合った。真剣なまなざしが藍夏の心をつかまえた。 「星舟?」 「藍夏、少し時間をもらえるなら、ひとつ提案がある。この近くに泉があるのだが、そこへ行ってもいいだろうか」  藍夏はそっと眉をひそめた。 「泉? 聞いたことありません。俺は一年くらいこの山に登っていますが、水の音はしませんよ」 「安全な道を行くから気がつかないのだ。私は下山のおりにいつもそこで一休みしている。獣道が少々危ないがね。けどすぐに戻ってこられるよ」 「もう暗くなります。痛みがひどくないなら、山を下りましょう。なんなら南の里まで送っていきますから……」  熱心に(うった)える藍夏を片手で制して、星舟は「痛くないぞ」と示すために左肩をひょいひょいと持ち上げた。 「泉へ行こう。藍夏」  力強い言葉。藍夏は拒否する心を忘れて星舟の声に聞き()れていた。美しい音が耳から入り、腹の底へ落ちていくような感覚だった。  星舟が歩き出した。地面に伸びる二つの影が重なり、背の高い影が先へ進んだ。  星舟を追いかけて藍夏も歩き出した。  星舟は山道をひょいと外れて(ひざ)まである草の茂みに踏み込んでいった。藍夏は周りをきょろきょろ見回した。人が通れる場所だとわかったときには星舟が数十歩先にいたので、速足でざくざく進んだ。  ゆるやかな上り坂だ。周りの木が高くなり、草むらも胸のあたりまで成長していった。頭上の木の葉の隙間から見える空はまだ明るい。藍夏がほっとしていると、目当ての獣道らしきものに遭遇した。  シカやイノシシたちが通っていく細い道だ。星舟は落ちていた枝を拾って邪魔になりそうな葉をどけていった。ガサガサと落ち葉を踏みながら迷いなく進んでいく。 (ふしぎだ。身体が軽い気がする)  青年である星舟の歩幅は広かった。それに遅れまいと彼の背中を見つめる藍夏の足もどんどん前へ進む。体力に余りがあり、走っていって先の様子を知りたいと思うときもあった。 「もうすぐだ」 「はい」  再び星舟が獣道をそれて丈高い草むらをかき分けていった。藍夏はドキドキしながらも、彼に従うことにした。  (ほお)()でる風が気持ちいい。ほどなくして前方からちょろちょろと水音が聞こえてきた。 「泉、本当にあったんだ……」 思わず藍夏が本音をもらしてしまったので、星舟は声を上げて笑った。
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