三・異界

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三・異界

 ひらけた場所だった。山の緑が暗い陰になって泉の水面に映っている。淡い藍色の空はまだあまり時間が経っていないことを示していた。向こうの山の端には宵の星がちらちらと見え隠れしている。  ぴゅーと遠くで鳥が鳴いている。  (らん)()は澄んだ水に目をかがやかせた。落ちた木の葉がいくつか浮かんでいた。水面の揺らぎで底の小石が歪んで見える。 「飲んでみろ、美味いぞ」  隣にやって来た星舟(せいしゅう)が片手で水をすくい、口に含んだ。藍夏もならって両手を差し入れた。冷やりとした水が爽やかだった。 「そうだ、水を入れておこう」  藍夏は腰にさげた竹筒を逆さにした。持ってきた水を捨てて、新たに泉の水をくんだ。これで帰り道は余裕ができるだろう。  バササッと背後で鳥の羽ばたく音がした。カラスかと思ったが、顔を上げたときにはすでに見えなくなっていた。 「……あ」  ハッとして藍夏は真面目な顔になった。星舟の傷の手当てをするためにここへ来たのだった。彼が元気にふるまうものだから忘れかけていた。 「星舟、もう一度傷をみせてく……」  藍夏は星舟に言いかけて、すう、と身体の感覚がなくなった。  ふらり 「……っ?」  めまいがして藍夏は体勢を崩した。そばにいた星舟がとっさに手を出して少年を抱きとめた。 「藍夏!」 「なん……ちから、入らな……」 「ここまで来るのに体力を消耗したんだろう」 「? ……ずっと、元気だっ……のに」 「(わし)の領域では感覚がうすれるからな。一度人の道を外れたら、戻るのは難しいぞ」 「わし? せいしゅう……?」  星舟の言葉がさっきと違う。藍夏は草の上にぺたんと座りこみ、星舟に支えられながら口をぱくぱくさせた。何かをしゃべろうとするがうまくいかない。ふわあ、と「何か」が遠のいていく。 「どれ、力のつく薬をやろうか」  星舟に口づけられて、藍夏は何が起きたのかすぐにはわからなかった。舌で(のど)の奥に小さな玉を押し込まれる。それを身体が勝手に飲み込んでしまった。 「なん……」 「考えずともよい。すぐに身体があたたまる」 星舟は藍夏を抱く手にぐっと力をこめた。舌で湿(しめ)したくちびるで藍夏の耳たぶをなぞる。 「藍夏」  至近距離で名を呼ばれた。 「……あっ」  (はかま)の帯に手をかけられている。藍夏が必死の思いで身をよじったときには着物の合わせがひらいていた。 「やめろ!」  藍夏は大声を出した。身体が熱い。風邪を引いたときとは違う、興奮して体温が上がっているような気分だった。  星舟を押しのけたいのに、しかし自分の腕がうまく動かない。  星舟は片手で藍夏の身体を支えたまま、もう一方で着物の下の肌に触れた。低い声でささやく。 「よく効いている。この丸薬は死者の蘇生に使うものだが、おぬしはまだ死んではおらん。ただの気付け薬と思うがいい」  元気な若者だ。含み笑いで言われる。あの青年と顔も声も同じなのに、今の星舟には刃物を突きつけられるような「危険だ」と思わせる雰囲気があった。 「やっぱり、妖だったのか」 「そうとも。おぬしの欲しいと思う姿に変化してみたのだ。逃げられなかっただろう? この男、なかなかの美貌ではないか。藍夏は面食いだな」 「ッ!」  心の奥の願望をのぞかれた藍夏はキッと妖をにらんだ。星舟はふふとほほ笑んで藍夏の身体をまさぐり、着物をほとんど脱がせてしまった。  藍夏は温もりのない手に腹を()でられてぞっとした。胃の()に落ちた丸薬が反応したのか、腹に熱を感じる。  ざわざわ  風が鳴っている。木々が揺れた。泉の水面がわずかに波立つ。  妖のされるがままになって、藍夏の心の中に黒い闇が生まれた。  自分は、妖に喰われて死ぬのだろうか。  いや、喰うならこんな隠された場所に連れてこなくても、出遭った山道で始末してしまえば手短にすんだのではないか?  よくわからない薬を飲まされ、(はずかし)めを受けているのは、なぜだ。  この妖には不気味な趣味があって、藍夏をとっくりといたぶろうとしているのではないだろうか。たとえば、生きたまま皮を()ぐ、とか……。  自分の想像力にひどい嫌悪を感じて、藍夏は眉間にしわを寄せた。  星舟の手がときおり思い出したように下半身をつつく。考えごとにふけっていた藍夏はそのたびに我に返り、屈辱と困惑に(さいな)まれた。
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