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一・逢魔が時
ざわざわ
木々がさびしそうな音を立てて風に揺れている。
夕暮れになった。太陽が向こうの山の後ろへ隠れてしまう頃合を見計らって、ぞろぞろと妖しいものが眼を開ける時間だ。
「逢魔が時か」
ばさっ
どこかの木からカラスが飛び立っていった。黒い点となって空にとけていく。
藍夏はふと下山の足を止めた。麓までもうすぐだ。ふうと息をついて遠くの空を見やった。伸びた髪を後ろで結っているので首周りがすっきりしている少年だ。着物の筒袖の中にひゅうと風が入ってきて涼しい。日焼けした顔はまだまろやかさが残るものの、肩幅が広くなり大人たちと並んでも大差ないものだった。
「夕焼けはいいな。こんなきれいな景色なら、妖だってねぐらから出てきて見たくなるというもんだろう」
天頂はやわらかな藍色に染まり、少しずつ世界を覆っていくところだった。春が芽吹く地上はわずかに橙色がにじんでいる。闇と光がとけあう様子は美しかった。視界のすみには村の屋根が点々と並んでいた。
この景色は藍夏が週に一度の山登りをするときのささやかな楽しみだ。山といっても登頂するわけではなく、一日で行き来できる距離を移動しているだけだ。ふだんいる場所より高いところから望む空は日々の雑念を忘れさせてくれる。吸い込む空気が清々しい。
「あ、いけない。帰らなきゃ」
大好きな空の色にぼーっと見とれてしまった。藍夏はぴょんとジャンプして背中にくくりつけた麻袋の位置を正した。中には薬草と食用の実が入っている。彼はしぼった袴の裾を結び直し、草鞋の履き心地をととのえ、下山の準備をした。
ひと仕事終えて疲れていた。もう少しだけ休んでいこうかとも思った。藍夏はこの時間が美しいものであり、しかし危ないものであることを村の大人たちからきつく言い聞かされていた。
――いいか、藍夏。夕暮れには妖が腹を空かせてうろつき回る。ぼんやりしてうっかり魂を吸い取られちゃなんねえぞ。やつら、暗闇にまぎれて人の魂のありかを探ってくるからな。
肝に銘じておくよ。藍夏は村一番口うるさい爺に真面目な顔で応えていた。心の中ではそっぽを向きながら。年寄りはいつも同じことばかり言う。幸いなことにそんな危ないやつは見たことがない。
チカッ
暮れかけた太陽の方向に星が光っていた。宵の星だ。藍夏はぱっと表情が明るくなった。指をくっつけて丸をつくり、その中に遠くの星を収めた。
「うん、今日はひときわ白く見える」
指でつくった丸をじっくりのぞいていると、
「君、ちょっといいかい?」
「えっ」
ふいに後ろから声をかけられた。藍夏は驚いて振り返った。指でつくった丸の中に男の顔が入る。その眼が一瞬きらりとかがやいたように見えた。
なにか、嫌な予感。
(もしかして……いや、まさかな……)
男は藍夏よりいくつか年上の青年だった。山の緑になじむ深い色の着物がよく似合っている。涼しい目元をした美丈夫であり、村では見たことがない顔だ。それが黄昏の下でなにやら妖しい雰囲気を醸し出していた。
「俺は薬草を取りに来ただけなのですが……」
初対面の人を妖だと疑うのは失礼であったが、藍夏は慎重になって必要なことだけを口にした。あとは何もしゃべらず、男の出方をうかがうことにした。
男は藍夏の態度を見て機嫌をわるくしたふうもなく、逆におどけたようにくだけたもの言いをする。
「そう警戒してくれるな。私は西の村からやって来た星舟という。名は星の舟と書く」
「きれいな、名前ですね」
「みんなそう言ってくれるがね。ざんねんながら中身が追いつかん」
星舟はやれやれと苦笑いしたが、憂いを帯びた表情に藍夏はつい見とれてしまった。ふしぎな魅力がある。声も穏やかでやわらかい。
遅れて藍夏も名乗る。星舟は気さくで話しやすい人物だった。
「星舟さん。西の村、ていうとここからけっこう遠いんじゃないですか。山を下りたら夜道を歩くことになる」
「星舟でいい。南の里にいる母に力仕事を頼まれているんだ。里帰りみたいなものだから、そんなに急ぐ旅ではないよ」
南の里なら藍夏の村より近い。星舟は荷物をまとめた風呂敷を背中にくくりつけていた。軽装だ。月が出る前に出発した方がいいだろう。
星舟も長話をするつもりはないらしく、短い言葉で藍夏に同行の許可を求めてきた。
「藍夏、よかったら途中まで一緒に行ってもいいだろうか」
「一本道ですし、安全のためにもそうした方がいいでしょうね」
青年から邪気は感じられない。最初の違和感はうすれていた。藍夏はうなずいて、二人で太陽を背に山を下りることになった。
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