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私が住んでいるマンションの前には川が流れている。
両岸をコンクリートで固められた用水路のような小さな川だが、
春になるとその風景が一変する。
川沿いに植えられたいくつもの桜が、川をピンク色で覆い尽くすのだ。
この冬から春に変わる時のギャップが面白い。
この家に入居を決めたのも、この眺めが決め手だった。
窓を開けると、心地よい春の風がすぅーっと舞い込んでくる。
手を伸ばせば桜に手が届きそうな特等席で、
お気に入りのコーヒーを楽しむ休日が、
私にとって癒しのひとときである。
窓からは川にかかる小さな橋も見える。
その橋を中心にして、
川の両岸がすべて桜で覆われる形になっているので、
橋を渡る歩行者は必ずと言っていいほど足を止める。
桜をバックに寄り添って写真を取るカップル、
花がよく見えるように子供を抱き抱えているお父さん、
桜を指差しながら笑顔で会話しているご夫婦、
一見桜に興味なさそうな少しやんちゃな若者まで、
ワイワイ言いながら写真を撮っている。
普段は競うように交差点を行き交う人たちも、
我先にエレベーターを駆け上がる人たちも、
人を押し除けて電車の座席を確保しようとする人たちも、
きっと誰もが立ち止まり、顔を上げるんじゃないか。
同じときに、同じものを見て、同じように美しいと感じる。
桜は私たちの素通りを許してはくれない。
桜は海外でも咲いているらしいが、
川や公園だけでなく、もし国境に沿って咲いていたとしたら……。
今世界中で起こっている争いごとも少し減ったりするのだろうか。
美しい桜を踏み倒して、
領土を奪いに行こうなんて考える国があるのだろうか。
美しい桜の前で、もし踏みとどまることができたなら、
国境を越えずに「そのまま引き返す」という選択肢だって
生まれるかもしれない。
きれいごとで終わらせない美しさを、
桜なら持っているような気がしてならなかった。
桜を前に足を止める人たちを眺めながら、
そんなことを考えていると、
私の左頬を撫でるひんやりとした春風に、
現実に引き戻された。
ふと手元を見ると、右手に持ったブルーマウンテンの上で、
薄ピンクの花びらが1枚、ゆらゆらと揺れている。
そう言えば桜の花びらって、ハート型なんだっけ。
たくさんの心が集まって、ひとつの大きな木になる……
「あっ、何か私、今いいこと言ったかも」と、
柄にもない自分の発言に思わず笑ってしまった。
桜は、私の頭の中まで平和にしてくれたようだ。
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