433人が本棚に入れています
本棚に追加
/76ページ
3月初旬、仕事の打合せで数年ぶりに中目黒を訪れた。打合せが終わり、目黒川周辺を散策する。
曇り空の夕暮れ時、厚手のコートを羽織っていても、長時間歩けば手足が冷えるような寒さの日だった。
「Cafe」と書かれたシンプルな看板が目に入る。
下に小さな文字で"Hyg Dig"と書かれている。
大きなガラス張りの窓から中を覗いてみると、店内の中央にカウンターがあり、その前に椅子が数脚、2人掛けのテーブルが4卓程置かれた、こぢんまりした店だった。壁や床はグレートーンで統一されシックな装いだ。
外にはテラス席があり、テーブルが2卓置かれている。
外から店内を見渡しても人の気配がなく、お店に入るか躊躇する。
「こんにちは。」
後ろから声をかけられ振り返った。
白いシャツの上にベージュのエプロンを着ている、軽く見上げる程の背丈で、人好きする顔立ちの男性が立っていた。
「あっ・・・すみません!ちょっと忘れ物届けに、外にでてて。コーヒーですよね?中へどうぞ。」
「あっ、はい。」
「えっ、違いました?」
「いえ、そうです。」
「どうぞとうぞ。」と促されるまま入店する。カウンター横のレジでメニューが書かれたタブレットを渡され、目を通す。メニューには数種類のコーヒー豆の産地と味の説明が書かれており、わずかな時間考え、結局一番上の『Today's Special』と書かれたコーヒーを注文した。
「お名前聞いてもいいですか?」
「え?」
突拍子もない質問に思わず変な声が出る。
彼は豆の入った袋を持ち、コーヒーを淹れる準備をしている。
「カップにお名前と一言書いてるんです。」
「あっ、なるほど。」
さも当たり前のように言われ、名前が口をついて出る。
「ヨシノです。」
「下の名前ですよね?どんな漢字なんですか?」
「下の名前です。佳子様の佳に乃木坂の乃で佳乃。」
「佳乃さん、可愛い名前ですね。」
爽やかな笑顔で言われた可愛い名前にむず痒さを感じる。
彼は私の注文した一杯分のコーヒーをカウンターで手慣れた様子で淹れ始めた。
豆を挽き、お湯を注ぎ蒸らし、少し時間をおいて、また何度かに分けお湯を注ぐ。その工程を近くで目にするのは初めてで、ついつい目を離さずに見てしまう。
目の前で私の為だけに淹れられたコーヒーはどこか『特別』なものに感じた。
彼がコーヒーをテイクアウト用の紙パックに注ぎ、カップを手渡される。
カップには『佳乃さん Thanks』と書かれていた。
代金を支払い店を出ようとすると再度声をかけられた。
「店内で飲んでもらっても大丈夫ですよ。外にいるんで。お1人でごゆっくりどうぞ。テラス席で飲んでもらってもいいです。寒いかもですが。」
ちょうど歩き疲れていたので座ってゆっくり飲みたい気分だった。
「店内で飲ませてもらってもいいですか。」
「どうぞ。」そう言うと彼は直ぐに店から出て、テラス席の椅子に腰掛けた。
カウンターに座り、コーヒーを一口飲む。爽やかな酸味とフルーティーな味わいが口に広がる。いつも飲む苦みやコクのあるコーヒーとは違い、苦みの少ない、甘い果実のような風味に、口に残るその残り香に浸っていたくなる。
一口ずつ、香りを楽しむようにコーヒーを飲む。
ただコーヒーを味合うだけの贅沢な時間だ。
最初のコメントを投稿しよう!