祖父のマンドリン

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 大学一年生が、入学後まず最初に浴びる洗礼の一つに「新勧」がある。新入生歓迎……ではなく、新入部員勧誘だ。  サークルや部活に属する学生たちが、新入部員を獲得しようと躍起になって、ビラを巻いたり声をかけたり、新入生無料のコンパに誘ったりと大忙しなのである。  道を歩けばまず「一年生? サークル決めた?」と声を掛けられる。両手に収まらないほどの勧誘チラシを右から左から渡される。新入生は無料です、タダでご飯食べませんかという、もはやサークルの活動内容に全く関係のない勧誘をする先輩もいれば、それにホイホイついて行って有難くタダ飯を獲得してくる強者もいる。  授業が始まり、嵐のような勧誘期間が少し落ち着いて一週間ほど経った頃、私は祖父の楽器をクラブに寄贈するため、伯母から引き取った重いケースを抱えて大学へ登校した。  黒いひょうたんのような形のハードケースは、しっかりして守りの固そうな安心感はあるものの、大きさの割にそこそこ重い。自宅からバスに乗って大学まで運ぶのはなかなかの重労働だった。せめて背中に背負うためのベルトでもついていれば良かったのに。  私が入ったのは農学部なのだが、一年生のうちは教養科目といって、数学とか化学とか英語とか、高校の延長のような講義が朝から夕方までみっしり詰まっている。大きなロッカーがある訳でもないので、この日は朝から夕方まで、楽器ケースを抱えた状態で講義室を移動して回るはめになった。  夕方、最後の講義が終わった放課後、重いケースを抱えてマンドリンクラブの部室へと向かう。ホームページで調べていたので、場所はすぐに分かった。年季の入ったコンクリート造りのサークル棟、二〇三号室。  ドアを開けると、中には誰もいなかった。左右を天井まであるスチール棚に囲まれた小さな部屋だ。スチール棚には楽器のケースと、引き出しがたくさん並んでいる。部屋の真ん中に大きなテーブルが鎮座していて、人間が移動できるスペースはほとんど無い。  そういえば、この日に持っていくということは誰にも伝えていない。行けば誰かいるだろうと思っていた。今日は誰もいないのだろうか。諦めて出直すかと溜め息をついたとき、不意に背後から声を掛けられた。 「新入生?」 「えっ、はい!」  気配を感じなかったので驚いて振り返る。サークル棟の通路に、男の人が一人立っていた。  思わずぱちりと目を瞬く。少し高い位置からこちらを不思議そうに見下ろしている青年。まるで人形のようだと思った。白い肌、ぱっちり二重。黒い髪を顎の辺りで切り揃えた、いわゆるおかっぱなのだが端正な顔立ちによく似合っている。 「新入生? 部室に用事?」  静かな声にもう一度尋ねられて、はっと我に返る。 「あっ、すみません。音羽(おとわ)です。亡くなった祖父の楽器を寄贈するとご連絡した者です」 「先輩たちなら、サークル棟の下で練習してる。降りてみるといいよ」  先輩たち。その言葉に、彼が楽器の寄贈のことを把握していない立場なのだと理解した。 「もしかして、あなたも新入生ですか?」
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