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「えっと、お昼前。わさわざ裏口から回ってもらっちゃって。」
またそんなことしたのか、あの人は。どうして表から入ってこないのだ。何を喋っていったのだ。苦々しい思いが次々に押し寄せてきて飲み込まれそうになり、思わず香乃は息を深く吸った。
この感情の塊は何なんだろう。あの人が店で余ったキッシュをおすそ分けにきた。たったそれだけのことがどうしてこんなにアタシをからめ取ってしまうのだろう。
その不穏な波を押し込めて、香乃はにこりと笑った。そうすることには慣れている。
「キッシュは店の人気メニューなんで食べてやってください。アタシはハムとトマトの方がイチオシなんですけど。」
奥さんが、まあやだ、超有名店もかたなしね、と言って笑い、旦那さんも一瞬笑みを見せてまた作業に戻った。香乃はいつもより元気に、夫妻に向かって、じゃあまた明日、と挨拶すると、伝票整理をしているノンちゃんにも手を振って店を出た。
肩が上下するほど深く息を吐く。無性にアキナの顔が見たくなったけれど、そちらに目をやってしまうと抑えがきかなくなりそうでぐっとこらえた。
脇にとめてある自転車の鍵を開ける。鞄を前カゴにのせると、自転車が文句を言うように軋んだ。強く地面を蹴る。桜の花びらの散り敷いた道をどんどん飛ばす。
暮れ始めた春の風は、まだ熱を帯びた耳をひやりと撫でる。
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