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妊娠
第3話
ブルークは無事だし、夜も媚薬を盛られているような、おかしな様子はないと思う。
アンリエッタのメモを見て、執事長のアンドレが、しっかりと対処したのだろう。
しかし、これからも男爵家から送り込まれた使用人がブルークに媚薬を飲ませようとするかもしれない。
けれど前世では、アンリエッタが処刑されるまでブルークは無事だった。
勿論、媚薬で身体が害されていたかまでは分からないけれど。
まず、アンリエッタがしなければいけないことはなんだろう?
ああっダメだ。思い出せない。
ブルークに害となる媚薬まで飲ませて、アンリエッタに子供まで殺させた男爵家が、このままおとなしくしている訳がない。
アンリエッタは、対策を考えられずに、いつの間にか眠ってしまってしまう。
『「子供が授かったのに、何故しらせてこないんだ。誰のお掛けで子供を授かれたと思ってるんだい。
いいかい男爵家から祝いの品を送るから、そのお礼に子爵家の持つ商業権でも、領地でもいいからよこすんだよ。
あんたが私生児だって事がばれたら、子供だってただじゃすまない。分かったね」』
バッ
またあの夢だ。過去の夢だけど、これから起こるかもしれない夢。
どうしよう、子供を妊娠したか分からないけれど、妊娠したからといって、ブルークに商業権や領地をねだるなんてありえない。
しかも、生まれてくる子供のお祝いにとねだるならまだしも、男爵家によこせなどと言えるはずもない。
「でも、分かったわ」
クルーシェ男爵夫人は、ことあるごとに子爵家の財産や土地をアンリエッタを使って奪っていくつもりなのだ。
◇◆◇
午後の昼下がり、庭に作られたガラス張りのテラスの中で、子爵家の料理人が作ったクッキーを食べながらお茶を楽しむアンリエッタ。
男爵家では、アンリエッタに与えられた使命があり、男爵家の書庫にだけ、自由に出入りが許されていた。
アンリエッタは、書庫の本に書かれていたデザートが、どんな味なのか想像するだけで楽しかった。
それが目の前に何種類もアンリエッタの為に用意されているなんて、夢なら覚めないで欲しい。
「うっ」
アンリエッタは突然の吐き気に襲われて、口元を押さえる。
「アンリエッタ様、大丈夫でございますか。誰か主治医を呼んで、奥様が┅┅」
周りにいた侍女が、慌てて主治医を呼びに行く。
「アンリエッタ様、お部屋でお休みになってください」
「ええ、そうね」
クロエが心配して、アンリエッタの腕を支えて部屋に連れていく。
◇◆◇
侍女は執事に頼んで、子爵家の主治医を呼んでもらった。
まだ年若い医師であるが、貴族達の信頼を集めており、子爵家でも安心して診察を任せている。
医師はアンリエッタの部屋に案内されると、アンリエッタは椅子に座って怠(だる)そうにしている。
「はじめまして、主治医のマーカスです」
「わざわざ来てくださり、ありがとうございます」
アンリエッタは初めて会う医師に、丁寧にお礼をのべた。
「デザートを召し上がっている途中で、吐き気がしたのですね。脈を拝見します」
アンリエッタは、医師の言葉を聞いて腕をテーブルの前に出す。
「奥様は大丈夫ですか」
医師の診察結果を待てないモリーが、口をはさむ。
「おめでとうございます。妊娠6週間目です」
診察を受けると、なんと妊娠初期。
まだ初期と言うことで、安静にして食事に気を付けようにとの診断。
「おめでとうございます。元気な男の子を産んでくださいませ」
医師を呼びにいった侍女が、妊娠した貴族女性にのべる、通常の祝いの言葉を口にする。
「男でも女でも構わないわ」
彼女の言葉に、主治医が微笑んだ。
「その通りです。では、妊娠中は吐き気があっても薬は控えて下さい」
アンリエッタは夢見心地のままうなずいた。
「そうですね。お菓子も控えます」
「食べ過ぎはダメですが、食欲がない時にはお菓子でも召し上がって下さい」
「分かりました」
そしてお腹に手を当てる。
「ここに赤ちゃんが」
彼女の瞳から涙がこぼれる。
「どうしたのです? 奥様、喜ばしい事ですのに泣かれるなんて」
涙をこぼすアンリエッタに、モリーまでもらい泣きをする。
過去に自らの手で殺してしまった子供が、お腹に宿ったのだわ。
絶対に守ってみせる。この小さな命を犠牲にしない。
「執事長様、ご相談がございます」
アンリエッタは執事長であるアンドレの執務室を訪ねた。
「子爵夫人、このような部屋にお越し頂かなくても、お呼び頂ければお伺い致しましたのに。それから私の事はアンドレと呼び捨てになさって下さい」
今日は大事な用事があってここまで訪ねたのだ。
「では、アンドレさん、ご相談があってお訪ね致しました」
アンリエッタは、今後、要求されるであろう男爵家からの請求に対して、対策を練る必要がある。
「子爵家や子爵領で、赤字の事業や税収、商業、困り事等あれば、参考までに教えて頂けませんでしょうか」
黒字の事業や上手くいっている制作に新参者の女が、口を出せるはずもない事はアンリエッタにも分かる。
「赤字の事業ですか?」
アンドレは、思いもよらない話を、思いもよらない人物から聞かされて、目を見開いているようだ。
「女の身でこのような話をするのはお見苦しいかもしれませんが、子爵家に嫁いできたのです。子爵家で困ったことがあれば、解決出来ないまでも、皆様と悩みを共有したいと思いました」
アンリエッタは、子爵領が税収も豊かで事業も上手くいっていると聞かされてきた。
けれど全てが上手くいっている領地など存在しないことも事実だ。
「子爵夫人は、赤字の事業や困り事を知りたいのですか?それとも、赤字の事業や困り事の内容を勉強されたいのでしょうか?」
アンドレの目が一瞬光ったのをアンリエッタは見逃さなかった。
「アンドレ様から教えを乞いたいのです」
アンリエッタは、心ならずも両手を胸元で握り締めて祈る形をとっていた。
「子爵夫人、お止め下さい。私は子爵と夫人にお仕えする者です。ご命令頂ければよいのです」
アンドレは立ち上がって、古い書棚から、いくつかの本と書類をテーブルの上に置いた。
「説明にお時間が掛かりますので、お茶とお菓子を用意させましょう」
アンドレは執務室を出て侍女にお茶の用意を命じると戻ってきた。
「まず、子爵領の主な産業は魔鋼鉄と綿です。魔鋼鉄は大変貴重な物ですが、実際には、魔鋼鉄の取引価格はあまり高くありません。
魔鋼鉄から魔法水に分離した物や魔鋼鉄で作られた魔法剣や魔法武具は高価な値段が付くのですが、子爵領には魔法師がほとんどおりません」
アンドレは丁寧に説明をしてくれる。
「ああ」
アンリエッタは、何故、子爵と身分の男爵の娘が結婚するに至ったか、
ようやく理解できた。
「私の力が、魔法師の力なんですね」
アンリエッタが、男爵家に魔法師の力があると引き取られてから、家を出る事も許されずに、書庫にこもって勉強させられた。
そして魔鉄鋼や魔法石から魔法水を分離する練習や、魔鉄精製の技術を独自に学んできた。
さすがに魔法剣や魔法武具を作る事までは考えが至らなかったが、これならば子爵領の役に立てるかもしれない。
「 魔法水なら作れます。剣や武具は無理ですが、魔鋼鉄の作り方は独学で学びました」
アンリエッタは自分にも出来る事があるのだと喜びに胸が震える。
「大変失礼でございますが、男爵家では、奥様の魔法師の力を子爵家が必要としていると言うお話しはなかったのでございますか」
子爵家と男爵家が婚姻した理由を知らなかったのだろうかとアンドレは不思議な気持ちで、アンリエッタを診ている。
魔法師の力を持っているから結婚してくれと売り込んできたはずの男爵家。
結婚した当事者である娘のアンリエッタが、そのことを知らないのは、おかしい。
「あっ、申し訳ありません。何か理由はあると思ってはいたのですが、理由については何も聞かされておりませんでした。
でも私の力がブルーク様のお役に立てるのであれば、私はどんな事でも致します」
アンリエッタの真剣な眼差しと言葉に、アンドレは目尻にシワを作る程目を細めて満足している。
「奥様、私に出来る事であれば、何でもお手伝い致します」
アンドレの言葉にお礼を言いながらも、アンリエッタはその言葉を受け入れる訳にはいかない。
「アンドレ様はブルーク様の執事長です。ブルーク様の業務や身の回りのお世話をお願い致します。ですから、子爵家と縁のある商人の方で、お力添え頂ける方をご紹介頂けませんでしょうか」
子爵家の力になりたいのは心から真実だった。
けれど、男爵家に私生児だとばらされたくなければとゆすられているので、男爵家に渡す物の準備も進めなければいけない。
だが、出来ればブルークには知られずにすませたい。
それには、子爵家内部の人間ではなくて、お金で動いてくれる商人が望ましい。
「分かりました。子爵家と取引のある商人を、何人かご紹介させて頂きます」
アンドレ自身はブルークの専任の執事長だと言うアンリエッタの考え方を気に入ったようだ。
「では、本日は子爵領の魔鋼鉄と綿の取引先と産出量、年間の取引金額、他の産業についてもお伝えさせて頂きます」
アンドレは自分に教えられる知識を、アンリエッタに伝えたいと考えているようだ。
「よろしくお願い致します」
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