男爵令嬢

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男爵令嬢

第1話 「お嬢様のせいで、奥様は亡くなったのよ」 侍女は、わずか5歳になったばかりのマリーゼの耳元で囁いた。 幼いマリーゼに分かるのは、自分には母親と言う存在がいないと言うこと。 そして母親の実家から呼び寄せた新しい侍女が、自分を嫌っていると言うこと。 母親のヴァネッサは、難産の末に亡くなってしまった。 実家で母親付きだった侍女は、ヴァネッサが亡くなった報せを聞いた時、大声で泣き叫んだ。 そして父親のバランティノ男爵は、母親のヴァネッサに忠実だった侍女に、5歳になったばかりのマリーゼを任せようと決めた。 ◇◆◇  マリーゼは男爵家の末っ子で、父親のバランティノ男爵と兄のヨーク卿に可愛がられて育っていく。 けれど商団の仕事で忙しい父親と学業に加えて商団でも才覚を表したばかりの兄ヨークは、マリーゼを構ってやる時間がなかなかとれない。 そこで母親の実家から、母親と子供の頃から一緒に育った侍女を呼び寄せて、マリーゼの世話を任せた。  久しぶりに父と兄が揃って夕食を食べる事になり、マリーゼは親子3人での食事を楽しみにしていた。 広いテーブルの片側に、家族3人て寄り添って座る。 コラドと呼ばれる緑の野菜にコカトリスの肉ミンチを摘めた揚げ物や、ブブカと呼ばれる黄色い実のスープ等が食卓に並んでいる。 「これ嫌い、これも食べれない。早くケーキをちょうだい」 いつも1人で食事をする時には嫌いな物は出てこないのに、今日はマリーゼの嫌いな物ばかりが並んでいる。 「いつも食事を食べずに、ケーキばかり食べているのか」 男爵は食卓に出された物で、食べれる物はないのかとマリーゼに勧めた。 「申し訳ございません」 侍女がいきなり土下座をして、男爵達は何ごとかと驚いている。 「いきなり、どうしたのだ?とにかく立ちなさい」 男爵は席を立つと、侍女に手を貸して立たせた。 「マリーゼ様に食べて頂けるように毎日工夫しているのですが、なかなか好き嫌いを改善して頂く事が出来ませんでした」 「まだ子供なんだから仕方ないよ」 兄のヨーク卿は幼い妹をかばってくれたけれど、マリーゼの中ではモヤモヤした物が大きくなっていくのを感じていた。 いつもは嫌味を言う侍女が、ケーキを食べると褒めてくれて嫌いな物は食べなくてもいいと言ってくれた。 だから食事はマリーゼに取って好きな時間だったのに、それを壊されてしまった気持ちになっていた。 「早く食べなさい」 男爵の言葉を聞いて、侍女は子供用のフォークでコラドの肉摘めを刺してマリーゼの手に握らせてくる。 マリーゼは小さな口にコラドの肉摘めを無理矢理詰め込んで飲み込もうとしたが、なかなか喉を通らない。 「ケーキだけじゃなくて、野菜も食べられるようにならないとな」 男爵の言葉は娘を思ってのものだったが、7歳になったばかりのマリーゼの心にうっすらと影を落とした。 ◇◆◇  それから変わらない日々が、数年間続いきマリーゼは9歳になっていた。 「今日からは感受性を高める為に、絵を描きましょう」 侍女が、めずらしく妙に機嫌の良い声を出してくる。 「うん」 マリーゼは床に寝転がって、画用紙に猫の下絵を描いて、絵の具を塗っていく。 「画用紙の端まで、ちゃんと絵の具を塗らないとダメですよ」 侍女の言葉に、マリーゼは画用紙の端まで絵の具を塗って、ついでに床まで絵の具を塗りたくっていく。 「まあ、なんてお上手なんでしょう。でもお洋服が汚れたから、この間買って頂いた新しい服に、着替えて下さい」 侍女の声は、どんどん上機嫌になっていって、まるでマリーゼにからみ付いていくようだ。 「うん」 マリーゼは言われるがままに、男爵に買ってもらったばかりの白いドレスに着替えて、その場でくるくる回って見せる。 いつもはそんな行動をとらないマリーゼだったが、侍女が上機嫌なのでマリーゼも気分が上がっていたのかもしれない。 「まあ、よくお似合いですよ」 滅多に褒めることのない侍女から今日は2回も褒められて、マリーゼは嬉しかった。 「せっかく綺麗なドレスを買って頂いたのだから、お父様にご覧になって頂いたらどうですか?」 「うん」 侍女が褒めるくらいだから、きっとお父様も喜んでくれるだろうと思いマリーゼはコクリとうなずく。 「私は部屋の片付けと洗濯をしますから、お嬢様はお一人でお父様に見せに行けますよね」 「うん」 返事だけすると、マリーゼはドアを開けて廊下を駆け出していく。 「お父様」 商団が休みの日には、父がいつも過ごしている書斎のドアを開けた。 「何だ、その格好は」 父の驚く顔と、周りにはホイットニー商団の取引相手が3人ソファに腰かけてマリーゼを見ている。 マリーゼは両手で裾を持ち上げて、父親にドレス姿を見てもらおうとした。 (お父様も、きっと可愛いって褒めてくれるわ) 「どうしたんだ、その服は」 (あれ?) 男爵の反応はマリーゼが思ったものと違う。 マリーゼはドレスに目を落として、ビックリして体が硬直してしまう。 「ドレスが、絵の具で汚れちゃった」 絵を描いて汚れた服を着替えただけのマリーゼの手は、絵の具がベッタリ付いていた。 そして新しい真っ白なドレスが、絵の具でベトベトに汚れている。 「娘はまだ遊び盛りで、すみません」 「いやいや、元気があっていいじゃないですか」 「本当に」 客人達も上流階級の人間だ。 幼いと言っても貴族の娘が、絵の具に汚れたドレスで部屋に駆け込んでくるのを、快くは思っていないだろう。 むしろ、自分の娘じゃなくて良かったと安堵していたかもしれない。 「私はお客様と話し中だから、部屋で遊んでいなさい」 男爵はソファから立ち上がるとマリーゼの元へやってきて、部屋に戻るようにドアノブを開けようとして、ドアの前で立ち止まる。 ドアノブが絵の具で汚れていることに気が付いた男爵は、ポケットチーフでドアノブを包んでドアを開けた。 けれど幼いマリーゼには、その行為がマリーゼの触ったドアノブを汚いと思っているように見えてしまう。 「┅┅うん」 マリーゼは、泣き出しそうな声を押し殺して、やっとのことで一言だけ口にした。 「返事は『はい』だ」 「┅┅」 マリーゼは「はい」と答えてしまったら、涙が溢れ出してしまうと思い答える代わりにドレスの裾をギュッと握りしめる。 「もういい、行きなさい」 男爵に背中を押されて、マリーゼは書斎から閉め出されてしまった。  マリーゼは悲しい気持ちで、今日の出来事を振り返ってみる。 ここ数年の経験で、幼いながらもマリーゼには分かったことがある。 それは侍女がいつもより機嫌が良い時は、マリーゼによくない事が起こると言うこと。 勿論、分かったところで、それを回避する術を9歳のマリーゼが持ち合わせているはずもなかった。 ◇◆◇  心を許せる友だちもいないマリーゼのなぐさめになったのが、最初は物語の書かれた本だった。 そのうち使用人や侍女たちの愛読していた暴露記事が廊下に落ちているのを拾って、マリーゼは部屋に持ち帰って読んだ。 マリーゼが初めて目にした暴露記事 【サンドラ王国一の美女と言われる王女と、リュシオン王国の第二王子が密会しているのを目撃。 しかしサンドラ王国の王女には、すでに婚約者がいる。 若い2人の許されぬ恋は、果たして成就されるのだろうか?】 「マジで、ぶっ飛びましたわ。今まで読んでた本と、全然違うじゃないの。2人の恋の行方はどうなってしまうのかしら?」 マリーゼは、暴露記事の続きが気になって仕方がない。 「侍女に頼んでも、嫌がらせの口実に使われそうだし、自分で買いに行きますわ」 マリーゼは男爵邸を抜け出して、自分で暴露記事を買いに行くようになった。 上流階級で、貴族令嬢が街中に出て自分で暴露記事を買うなんてありえない。 けれど暴露記事の続きが気になるマリーゼは、外聞など気にしていられない。 暴露記事の購入場所と言えば、道端の雑誌や新聞を売るリヤカー▪本屋▪雑貨屋等である。 「う~ん、これだわ。これ下さい」 マリーゼは男爵邸から一番近いと言う理由で、暴露記事を売っているリヤカーで、暴露記事コレットを購入してきた。 コレットは婚約者のいるサンドラ王国の王女と、リュシオン王国の王子が密会していた記事が掲載されていた暴露記事だ。 暴露記事と言っても一つの記事を数枚の紙で売っている物から、何十ページの雑誌として売っている物まで様々である。 内容も実際には暴露記事ばかりではなくて、読者からの投稿を紹介されたり、日常の出来事が紹介されている物もある。 中には、イジメや自殺などの暗い記事も掲載されていた。 マリーゼは暴露記事が好きだったけれど、他の記事を読む事で多くのことを学んでいく。 例えば侍女からのイジメが、実は母親がマリーゼを生んで死んでしまったことが原因ではないと思うようになった。 人をいじめるのに、実際には理由なんて必要ないのかもしれない。 必要なのは理由よりも切っ掛けで、悲しいことだけれど、人は自分よりも弱い者をいじめることで優越感を感じて楽しむことが出来る生き物なのだ。 暴露記事を購入して、マリーゼは何故自分が嫌がらせをされるのか、悩んでも仕方がないと思うようになった。 勿論それは、嫌がらせをされても我慢すると言う意味ではありませんわよ。 マリーゼはニヤリと、男爵令嬢らしからぬ笑みを浮かべた。
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