桜が咲いたら

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「えー、瑞穂くんは?」  瑞穂を囲む集団が声をあげたのでそちらに視線を向ける。美術の教科書を開いている瑞穂の周りにいつもの女子達が集まっている。進路の話をしていたようで、瑞穂が受ける大学の話題になっている。 「俺はね――」  瑞穂が迷う様子もなく口にしたのは俺の志望校。瑞穂には話していたけれど、偶然同じところを受けるのだろうかと疑念を抱いた。  急に中三の頃を思い出した。瑞穂が受けると言った高校が俺の受ける学校と同じだったこと。あのときも志望校を瑞穂に伝えていた。  学校でうまくいっていないわけでも勉強についていけないわけでもなく、偏差値レベルをさげた学校に行くと言い出した瑞穂。まさか俺と同じ学校を選んだのでは――そう考えたら目の前が真っ暗になった。  まさか瑞穂は俺といるために自分の進路を曲げているのか。そんなことがあるはずない。つき合っているわけでもない、ただの幼馴染なのにそんなことをするはずがない。  それでも不安が心に押し寄せる。瑞穂を見ても、瑞穂は教科書に載っている絵画の写真をじっと見ていて俺の視線に気づかない。  帰り道に瑞穂にさりげなく「志望校を変えようかと思う」と話してみた。 「そうなんだ」  瑞穂は微笑み、「じゃあ俺もそこにする」と言った。脚が震えてきて立ち止まる俺を心配そうに見ている。 「どうして俺が行く学校に行くの?」  なんとか絞り出して聞く。どうか俺の想像する答えが返ってこないように、そう強く願った。 「杏といたいから」 「でも瑞穂の成績ならもっと上の大学目指せる」  震える声で言うと首を振られる。 「杏がいなければ意味がない」 「どうして……?」  瑞穂の目を見て問いかける。見つめた瞳にははっきりとした意志がこもっている。それがあまりにも綺麗で、怖い。 「杏が好きなんだよ」  胸が高鳴るはずのシーンで俺の心臓は凍りつく。 「……好きだからって、そんなのはおかしい」  声も指先も震える。ぎゅっと手を握り込んで負けないように強く瑞穂を見つめる。綺麗な瞳はまっすぐに俺の視線を受けてもゆらがない。 「おかしくないよ。好きだからそばにいたい。なにが悪いの?」  そうはっきり言い切られると俺の考え方が間違っているのかもしれないと思えてきてしまう。 「杏は俺が迷惑?」  なにも答えられない。  迷惑なわけがない。ずっと俺は瑞穂が好きだった。でもこれはだめだ。  瑞穂を見あげる。 「全部迷惑だ」  そう答えてはっとする。まさか。 「……好きだから、桜が咲くと俺を抱くの?」  はっきりと頷かれた。頷いて欲しかったのか否定して欲しかったのかは俺自身わからない。 「杏が離れて行かないように、杏が大好きな桜の季節を思い起こすたびに俺を思い出すように……。杏がずっと好きなんだ」  真剣な告白にどうしたらいいのかわからない。間違っているのに嬉しい。だめなのにだめではない。相反する思いが心の中で交錯し、息苦しくなってくる。胸もとを手で押さえて目を閉じ、再び瞼をあげる。俺をまっすぐ見つめる瞳には迷いも躊躇いもない。 「……だめだ」  なんとか絞り出した言葉はそれだった。  瑞穂を置いて駆け出す。どこでもないところに行ってしまいたい。  どこでもないところになんて行けるわけがなくて、結局近所の公園に着いた。息を整えてからベンチに座り、青々と葉を茂らせている桜を見ながら汗を拭う。初夏の爽やかな空気が頬を撫でていく。  瑞穂はなにを考えているのだろう。どうして俺のために自分を犠牲にするのだろうか。  視界がじわじわと歪んできて悔しさに涙が零れる。こんなのは違う。唇を噛むと目がなにかで覆われた。背後からの目隠しの犯人はひとりしかいない。 「……なんで自分のしたいことを優先しないの?」 「杏のそばにいることが俺のしたいことだよ」  優しくて静かな声。俺の反応を予想していたのだろうか。動揺は感じられない。 「中学に入って怖かったのが、杏に俺の知らない世界ができることだった。新しい環境ですごすうちに俺が忘れられてしまうんじゃないかと思うと叫びたくなるくらいの恐怖だった」  俺が瑞穂を忘れるはずがない。でも今それを言っていいのか。俺の気持ちは瑞穂に躓きとならないか。 「そばにいたい、抱きしめたい――そんな欲求がどんどん膨らんでいった」  切実な声で告げる瑞穂。目隠しを振り払って瑞穂の顔を見たら、今どんな表情をしているのだろうか。それを見たいが、見ないほうがいい気がする。 「桜に魅せられたふりをして『抱かせて』って言ったら頷いてくれて、飛び上がりそうなくらい嬉しかった」 「……」  俺だって嬉しかった。たとえそれがどのような動機から出た言葉であっても、俺には瑞穂の腕の中にいられる時間は至福のときだった。 「……お願い。瑞穂が本当に行きたい大学に行って」 「杏がいるところが本当に行きたいところだよ」  これでは話が進まない、と目隠しに手を添える。 「……瑞穂が好きだよ」  勇気を出して告白すると、触れた手が強張った。 「抱いてくれたときの嬉しさなんて言葉にならない。俺だってずっと瑞穂が好きだったし今も変わらず好きだ」 「本当に……?」  問いかけにはっきりと頷き、「でも」と続ける。 「瑞穂が瑞穂でいられなくなるなら、俺はそばにいられない」  自分で言った言葉に苦しくなるけれどなんとか言い切ると目隠しがはずれ、顔を覗き込まれた。澄んだ瞳が俺だけを映している。 「杏の言う『俺』ってなに?」 「それは……」  言葉に詰まってしまう。瑞穂は瑞穂だ。優しくて周囲を気遣って、俺をいつも大事にしてくれて、恰好よくて、いつでも笑いかけてくれて――ただひとり、俺が好きな人。 「俺は杏がいないとなにもできない弱い人間だよ。杏がいないとだめなんだ」  背中から抱きしめられて俯く。もしかしたら俺は瑞穂をわかっているつもりでわかっていなかったのかもしれない。俺が思うよりずっと繊細で弱い人なのかもしれない。  瑞穂の手にそっと触れる。 「…………負けた」  触れた手がぴくりと震える。顔を覗き込まれたのでふいっとそっぽを向く。 「瑞穂がそこまで言うなら、瑞穂がしたいようにしたらいいよ」  一度俯き、それから振り返って微笑むと、整った顔が驚きの表情になり、それから笑みに変わっていく。嬉しそうに頷く瑞穂に心が甘く疼いてしまう俺はどうしようもない。 「そのかわり、本当にやりたいことができたときには俺のことなんて気にしないでそれをやること」  約束の意味で小指を絡ませると瑞穂はしっかり頷いて同意してくれた。視線が合い、ゆっくり顔が近づいて唇を重ねる。葉桜が俺達のキスを見ている。桜が咲いていないのにキスをするのは初めてだった。心が疼いてもっと甘く情熱的なキスを求めて瑞穂の唇を舐めると、それが一方的に離れた。顔を寄せて追いかけようとしたら唇を手で覆われてしまった。 「……止まらなくなるから」  頬を染めて俺から目を逸らす姿が可愛くて、つい笑ってしまう。 「笑わないで」  そんなことを言われても笑わずにいられない。もしかして俺のことがものすごく好きなのではないか。 「じゃあ止まらなくていいところに行こうか」  口を覆う手を取って歩き出す。引っ張られるようについて来る瑞穂を連れて帰宅した。
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