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77.混乱して冷静になる
ぶつかった瞬間は、何に叩きつけられたのか分からない。痛みに呻いて、上から覆い被さったクロエの温もりを感じた。瞬きの時間すら長く思える時間が過ぎて、ゆっくり私は動く。
覆い被さる人がクロエだと認識したのも、この時だった。彼女は柑橘系の香りを纏うことが多く、鼻に届いた匂いで判断する。
「クロエ」
呼んでみるが、彼女は動かなかった。返事もないことに恐怖が膨らむ。でも彼女は温かい。手を伸ばして触れた肌のぬくもりに安心した。
動く左手で私の顔の横にある床を撫でる。床だと思ったのは、壁面だったみたい。カーテンとその奥に触れたら、ちくりと指先に痛みが走った。もしかして窓が割れているのかも。
それ以上触れるのをやめ、一緒に乗った他の侍女の名を呼んだ。
「セリア、コレット、デジレ」
誰の返事もない。不安がどんどん膨らみ始めた。冷静さが失われていく。もし無事な人がいたら、私に声をかけたはずよ。だって私がそうしたんだもの。ならば、返事がない彼女達は無事じゃないってこと?
「だ、誰か……」
叫ぼうとした私の口を、誰かの手が塞いだ。
「しっ、姫様。声を小さく」
クロエだ。囁くような声量に、騒いではいけないのだと理解した。幼い頃から一緒だったクロエが無事だったことに、不思議なほど気持ちが落ち着く。深呼吸して、王族教育の一節を思い浮かべた。
何者かに襲撃された時は、騎士や使用人の指示に従い、生き残ることだけを考える。万が一自分だけが生きている状況に陥ったら、安全な場所を見つけるまで動き回らない。
大丈夫、まだ頭は回る。私はエル様の妻になるんだから、取り乱したらみっともないわ。戦上手で名を馳せる婚約者が、すぐに助けに来てくれる。自分に言い聞かせて、小さな声で返事をした。
「ありがとう、クロエ。冷静になったわ」
外の騎士はどうなったのか。音が聞こえないのは、どんな状況が考えられる? すでに全滅したのなら、私は一時的に気を失った可能性があった。別の理由で馬車から離れたのかも。助けを呼びに行ったとか、囮となって敵から引き離した場合も。
裏切ったとは思わないし、見捨てられた心配はしないわ。それが王族である意味だから。国民の為に身を捧げることはあっても、絶対に疑わない。結婚するまで、私は隣国アルドワン王国の王女だった。この身には価値がある。敵がいても簡単に殺されることはないでしょう。
モンターニュとの間に諍いを起こすつもりなら、とっくに私は殺されているはず。湖にいた時の方が襲撃しやすかった。それなのに襲われなかったのは、帰り道を狙って罠を仕掛けたのよね。
ずっと仮説を立てて考え続けた。一度でも立ち止まれば、動けなくなる。クロエが身を起こすのが振動で伝わった。のしかかる重さが軽減され、すぐに頭の上の布が取り払われた。見慣れた柄の膝掛けだ。
伸ばされた腕に手を重ね、起き上がった。馬車がぐらりと揺れる。怖くなるが、クロエは私から視線を逸さなかった。吸い込まれるように視線を重ね、馬車から出る。
想像したより、外は暗くなっていた。
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