10 海からの風が強くなった

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10 海からの風が強くなった

 海からの風が強くなった。三人の髪先が逆立って飛びまわる。風は予想以上に冷たい。  白いカモメが十、いや、二十羽ほど、群れて飛ぶ。地上すれすれで旋回し、あーおあーおと鳴く。ぶつかるんじゃないかと、身をすくめながら、三人は群れを突っ切る。ハルの横っ面を、一羽かすめるようにして飛んでいった。あーお、あーお。  いろいろ腹に入れておいて、正解だった。さっきまでと違い、空気がずいぶん潮くさい。濃い潮は荒々しい血のように匂い、苦手だ。呼吸のペースは変えないよう、意識する。  ここで道路は山と海に分かれる。山側に作られた歩道は車道より一段高く、ハルたちは縦に並んで登り始めた。  ちょっと歩いただけで、もう海は見えない。闇は去り、そろそろ灰色がかった青を取り戻しているころだろう。そして車道の向こうから水が岩肌を流れる音がしてきた。  猟師川だ。  別のにおいが潮を薄れさせていく。  ユキトはなかなかみつからなかった。ハルがそのときのことをいくらかでも思い出せるようになったのは、最近だ。ついこの前まで、記憶にもやがかかっているみたいではっきりしなかった。  それでも故郷を離れる日が近づき、このままでは埋もれてしまう、とあせったかのように、記憶がいくつか、あぶくみたいに浮かび上がり始めた。  まだ、ユキトが帰ってこないんだけど。  あれは、桜舞い散る、そんな日だった気がする。いや、つぼみくらいだったか。  ハルの家にも草や翔太のところにも、何回も電話がかかってきた。入学祝いの携帯電話を買ったばかりで、誰もまだ番号交換をしていなかった。朝に村内放送で、地滑りの注意喚起のアナウンスが流れていて、その後、実際起こったというのに、みんなそれとユキトを結びつけられなかった。  ここまでだ。これ以上はうまく思い出せない。組み立てられていたパズルを一瞬で崩したように、胸の中で何かがばらばらになる。 「ねえ」翔太がいった。 「草ちゃんもハルちゃんも、かのこに告らないの?」  芽が伸びるように、すう、と、かのこの姿が思い出された。  かのこは、兄が見つかった当日、暴れるようにして泣いていた。あまりに激しい興奮ぶりに、葬儀も途中で退席させられたほどだった。そして数日後、かのこはつるんと以前の顔をして現れた。小さなほほえみさえ浮かべて、「心配させてごめんね」といって。  安心なんてしなかった。ハルが感じたのは軽い絶望だった。  穏やかに兄の話をするかのこに、ハルは自分が何一つしてやれないのだと思い知らされた。目の前で悲しみを語って欲しかったわけではない。苦しんで欲しかったわけでもない。ただ、差し出そうとした手が空を切ったような、ノブを回してもくるくる回るだけでドアが開かないみたいな、空っぽな感じがあった。  もしかして、ユキトに何もできなかったぶん、かのこを慰めて罪滅ぼしでもした気になって、自己満足したかったのか。  ハルはかのこの笑顔に怖じ気づいた。かのこは兄を慕っていた。それで、こんなに早く笑えるようになるはずがなかった。兄を亡くしたかのこは、ハルの知っているかのこではなくなった。  結局、自分は、逃げたんだ、とハルは感じていた。ハルの弱さをかのこは見抜いていて、だから泣きつこうとも、頼ろうともしなかったのだ、と。  いつの間にか、先を行く草と翔太の背中が遠かった。立ち止まらないよう、気を引き締める。  走る理由が、あの兄妹から逃げるためのような気すら、してきた。
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