13 歩くのは恐ろしい

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13 歩くのは恐ろしい

 歩くのは恐ろしい。やっとハルは気がついた。走るのとは全然違う。  走るのは自由だ。走っていると、地面を蹴るごとに、自分から何かがひとつずつはがれ、後ろに落ちていく。混乱や事情や思い出や、そういったものが足元ではじけてくだける。  ある境目から風景が消え、たったった、足音だけが相棒になる。ひとりぼっちなのにさびしくない。どんどん足が軽くなる。身体の細胞ひとつひとつが、自由を叫び出す。  だのに、これは反対だ。歩いていると、しんしんと何かが降り積もる。この、得体のしれない重みは何だ。あれもこれも、普段は目をそらし、脇に置いていることが頭をよぎり、通りすぎず、とどまって身に積もる。つかまってしまう。あまりの重さに足を引きずり始める。  ユキトの走りが美しいわけが、わかった。  ユキトには誰よりもそれがない。積もるものがない。  どこまでも軽く、天まで届く、走りだ。  となりを歩いていた翔太が、何かいった。雨が降ってきたらしい。右手を差し出すと、指先に、花びらくらいの軽さで雨粒が落ちる。空は青く明るく、じきに止むように思えた。 「やった、これで髪の毛まっすぐに戻るかも?」  翔太が両手を広げ、雨を受け止めようとする。 「ハゲっぞ」  ハルは首のあたりに手を伸ばし、コートについているフードをかぶった。声を出すと、さっきまでのしかかっていた重みが霧散した。ひとことでだ。相手がいて話しかけた、たったこれだけのことで、と、ハルはひとりで歩く恐ろしさを知った。  翔太がコートのボタンをしめ、ハルを真似てフードをかぶる。草はこれ使うの初めてだ、という。三年間フードがただの飾りだったことに、今初めて活躍していることに、感心しているようだった。 「こんな身近に、まだやったことない何かがあるなんて、おもしろいな」  草は時々天然だ。  翔太はポケットに両手を突っこみ、くるくる回る。中学生みたいなふるまいだ。「おれら、なんか変な集まりに見えね? シューキョー的なやつ」  ヘッドライトを消し忘れた車が一台、通りすぎる。黒のフードを頭からかぶった男が三人、こんな早朝に、ふだんは誰も歩いていない山道を登っていく。宗教的かはわからないが、怖い光景だろう。ぎょっとしてないといいけど。ちょっと笑えた。  そのとき、視界の端で、何かが動いた。向こうから、誰かがやってくる。人影はかなり大きい。 「誰か来た」ハルはいった。 「えっ」ふたりがとまどっている。  自分の中に沈んでいたせいで、気がつくのが遅れた。こんな朝早く、自分たち以外に人家から遠い道を歩く者がいるとは、思ってなかった。向こうも傘はさしていない。  近づくと、すぐにわかった。ここらへんの人なら誰でも知ってる。知的な障害があり、誰からも「ろくろー」と呼ばれている、年齢不詳の男だ。  朝、ろくろーは夏も冬も同じ時間に自宅を出、バスの終点近くの隣りの市の福祉施設まで歩き、そこで持参した弁当を食べ、同じコースを歩いて帰る。雨の日も雪の日も毎日毎日。バスが通りかかると、ろくろーは両手をおおきく振り、邪気のない顔でにぱっと笑う。  ハルたちは小さいころから、ろくろーになじんでいた。たまにすれ違うと、ろくろーはにこにこして、大柄な身体を丸めて、ハイタッチに応じてくれた。 「あ、ろくろー」  翔太は今度はそっちに駆け出す。前言撤回、翔太は中学生どころか、小学生レベルだ。ろくろーは昔と同じ、ひげで埋まりかけの笑顔で三人を迎える。翔太が音をたてて手を合わせた。  あ、でもひげには白髪がまじっている。いつの間に。  ぷんと、異様な臭いが鼻をつく。これは、長い間身体を洗っていない人間、特有のやつだ。草が一瞬顔をしかめた。 「ろくろーってこんな早くから、歩いてるんね?」  翔太が尋ねると、ろくろーは「うがうが」と答えた。どうともとれる返事だ。 「そうか、毎日これだけ歩いていれば、たくましくもなるよな」  草がいう。ぶ厚いジャンバーごしでも、ろくろーのしっかりした肉体は見て取れた。ろくろーは三人を見回した。一段と、嬉しそうな顔になる。 「う、う、」ろくろーがいいかける。「う、い、と」 「何?」  ろくろーは三人の頭を指さした。 「う、き、と」  指は頭をさしている。う、き、と、う、き、と、ハルはひらめいた。 「ユキト?」
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