14 翔太はこっそり息を止めた

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14 翔太はこっそり息を止めた

くせえな、ろくろーってば、昔っからこのにおいだよ。翔太はこっそり息を止めた。雨まじりで、ますます変なにおいになっている。  さっきハイタッチしたとき、ろくろーの手のひらは真っ黒だった。子どものときは気にならなかったけど、今はちょっと洗いたい。それでも、ろくろーの笑顔は変わりなくて、こっちも嬉しくなる。  そう、ろくろーってこんなだった。ろくろーを長い間忘れていたけれど、手を合わせたとき、記憶のろくろーが翔太の中からも立ち上がった。触れたことで、あらためて自分に深くその存在が刻まれた、そんな気がした。  そのろくろーが突然、ユキトの名前を呼んだ。 「う、い、と」  一瞬、三人は固まった。野手が反応できないほど鋭いライナーみたいだった。草でさえ、すぐに反応しない。ろくろーは自分のことばが通じたのがわかったのか、大きな手を振り回し、しきりに頭を指さす。 「フードか?」草がいった。「フードが、ユキトと同じだって、いいたいんだな。あの日、フードをかぶったユキトに会ったんだな?」  翔太ははっとして草を見た。草は口早に説明した。 「この学校コートをユキトが着たのは、あの日が初めてのはずなんだ。丈直しで前日返ってきたばかりで、あの日は肌寒くて、小雨も降った、コートを着たユキトにろくろーが会えたのは、あの日だけだ」  そこでろくろーは興味を失ったようで、ふいっと歩き出した。 「ろくろー」  ハルが呼んでも、振り向きもしない。追いかけようと足を踏み出したハルの肩を、草がつかんで止めた。ろくろーは坂を下り、どんどん小さくなっていく。 「ろくろー、ちゃんと歩道歩けよー」ハルはそれだけいって、動かなかった。 「行こう」草は静かにいった。  道路のぽつぽつした雨の跡は乾いたのか、消えていた。三人が立ち止まっている間に、雨は上がったらしかった。黙って三人はフードを脱いだ。  だからどうだってわけじゃないけど、翔太は思った、あの日にろくろーがユキトに会ってたって、どうってわけじゃないけど。今日、今、この日、このときに、ろくろーが「ユキト」といったことが、驚きなのだ。  ユキトはろくろーとも仲良かったな。思い出す、ろくろーは気が変わりやすく、ひとりと長いこと話しこんだりしなかったけれど、ユキトは別だった。まだユキトの背がろくろーの腰くらいしかなかったころから、ユキトとだけは手をつないで遊んでいた。  翔太は自分はあんまりユキトとふたりで遊んでなかったな、と思う。だいたいいつも、ハルや他の子が混じってた。  ふたりきりの思い出はそんなにない。あれは早春、早く孵ったカエルがぎゃろぎゃろ鳴いてたっけ。ふたりであぜ道に座りこみ、カエルの卵を田んぼから引き上げて、乾かして遊んだ。  それの何が楽しかったのか、今では失ってしまった気持ちだけれど、当時は透明な太い紐をずるずる引きずるのが、おもしろくてしかたなかった。それに興じながら、ユキトは妙なことをだらだらだらだらしゃべり続けた。便所の神様っていうけど、仏様っていわないのは、やっぱり「紙」と「神」の語呂合わせからきてるのかな、とか、かのこはかわいすぎるよ前世は天使じゃないか、とか、そんなこと。  やっぱり、変なやつだ。  みんなそう思ってたから、あの肌寒い時期に、ユキトが歩いて高校に行ってみるといい出しても、いつものことと止めなかった。  止めなかったのだ。
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