16 ハルは感じる

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16 ハルは感じる

 あ、一番後ろを歩きながら、ハルは感じる、草も翔太も、ユキトのことを思ってる。  ユキトのことを思い出すと、草も翔太も風で揺れる葉っぱのような、どこかたよりない顔をする。トンネルの中を照らす、オレンジ色の灯がさみしげなせい、だけじゃない。もしかしたら、自分もあんな顔で走っているのか。 ハルに最初に推薦入学をもちかけた、H大学のコーチは、ハルのフォームを褒めちぎった。君の、くせのなさに、ものすごい伸びしろを確信している。ありがたいとは思ったけれど、そのことばはハルを動かさなかった。  ことばの裏にコーチの本音が透けていた。こんな田舎で、よくこのていどの設備で、練習で、ここまで来られたな。  確かに、ハルのいた陸上部は部員三人、顧問はしろうと、主な練習場所は裏庭。ハルのシューズも、名門校の選手が履くようなものじゃあない。  ハルにとって、そんなことはどうでもよかった。誰かを追いかけているみたいな走りだね、進学を決めた大学の監督はそういった。追いつきたいのかい。  高沢はH大学に進む。そうか、おれがそっちの誘いを断ったことが、気になってゆうべ連絡してきたのかもしれない、ハルはやっと思い当たった。とりとめのない会話は、こっちを探っていたのだろう。  あのコーチは、高沢くんと君が揃えば、箱根はカンペキなんだとかいってたっけ。高沢にも同じセリフをいったのかもしれない。  自分がいいと決めた選択を、蹴った人間がいるというのはおもしろくない。そのくらいは、鈍いと、かのこにしょっちゅう注意を受ける、ハルにもわかる。H大より知名度の低い大学を選ぶなんて、高沢には理解しがたい、愚かものに思えたんだろう。  ユキトみたいに走れれば、それでいい。ハルの望みはそれだけだ。  小さなころから、ユキトの走りは美しかった。前にまっすぐ向かう視線、無駄のない手足の動き、バランスの良さ、あれほどの走りをする選手を、ハルは見たことがない。  ユキトはいろいろすごかったけど、一番の才能は走りだ。  ハルが走るとき、必ず思い出すようにしている、ユキトの走りがある。中学の校内マラソン大会にそなえ、トラックの周回練習の授業。続々と脱落する男子の間をすり抜け、いつもの涼しげな顔で、ユキトは走っていた。  周囲が消えた。音が消えた。雪景色のような静けさだった。ただまっすぐ走る、ユキトだけの世界。そこだけ、色が輝きが世界が、違って見えた。初めはハルも追いかけてたのに、みとれて、足が止まって、ハルは立ちつくした。それが一番の中の、一番。  そのときからずっと、ハルはユキトを追いかけている。  ふと思う、走っているとき、自分も草たちのような、たよりない顔をしているのだろうか。  道程で一番長いトンネルを抜けると、「狸寝」という標識だけの小さなバス停がある。そこで県道に脇道が現れ、その、川におりていく細い道の前で、二人が足を止める。ハルも立ち止まる。  アスファルトでなく、コンクリートの道だ。軽トラがやっと通れるくらいの道幅で、斜面の隅では、つくしが姿を見せていた。  三人は並んで立った。さっきまでとは違う沈黙がおりる。  ハルはふたりの顔を見た。ふたりも、互いの顔を見た。  大型トラックが後ろを通って、風圧に押され、三人は一歩、足を踏み出した。  早足になった。坂は急で、ころばないようにつま先に力が入った。  この道の下に、現場があった。  脇はぶつぶつのコンクリートで塗り固められ、それをさらに金属の網がおおっている。あの事故の規模自体は大きくはなかったが、人命が失われたことで、補強工事は迅速に行われた。  川べりに、人工的な形の、黒く光る石が積まれ、その前に花が置かれていた。竹筒にいけられた菊はしおれ、色褪せている。  初めて来たわけじゃない。けれどいつ来ても、ハルはこころの奥がしゅんとする。慣れない。何をしたらいいかわからなくなる。そこには、特別な場所特有の静けさが満ちていた。  翔太が手袋を取り、石の前で手を合わせる。ハルはぎこちなく、バッグの中の花を取り出す。大丈夫だ、折れてない。先客の菊を片づけ、川で花活けの水を替えた。持ってきた花を輪ゴムでくくったまま、竹筒に活ける。花の名は知らない。  草はペットボトルを一本、供える。桃のネクターだ。歯が溶けそうに甘いジュースを、ユキトは好きだった。  ざざざ、ざざざ、川音は小さい。  翔太がお参りを終え、正面を草に譲った。次に草がしゃがんで手を合わせる。翔太は長いことうずくまっていたせいか、酔っぱらいのように足をもつれさせている。ハルは寒気を感じた。  草は短かった。  ハルはのっぺらな石を見つめる。ここは、ユキトの一部が見つかった場所だ。  あの日の一週間後、一部、とかいうもので、ユキトの死亡は確認できるのだと聞かされた。その一部がユキトそのもので、あのユキトが一部。ものすごい、恐怖だった。  実際の、ユキトの墓は村の墓地にある。そこは、いつもきれいに掃除されている。  ゆっくり、腰を下ろした。  風が頬を過ぎていく。昨日より、やわらかい。息を吸った。もう夜は残っていない。 「おれ」  ハルは、いう。 「あの日、ユキトに一緒に歩こう、って誘われて、だのに、断ったんだ」
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