17 しゃがんでいたら、足がしびれた

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17 しゃがんでいたら、足がしびれた

 しゃがんでいたら、足がしびれた。ふたりのうしろで靴を脱ぎ、翔太はびりびりするつま先を動かす。履き慣れない靴で、こすれたかかとも痛い。  さっき、ユキトには、これからの生活の不安や、彼女ができたことなんかを長々と話した。親友だったのだから、ユキトはすべてを知る権利がある。  そうしたら、ハルがいい出した。あの日、ユキトに誘われたのだと。でも断ったと。 「ユキトが、毎日通うことになる道を、歩いてみようよっていってきて、だのにおれは、寒いとかなんのためかとか、つまんないこといって、断わったんだ」  知ってる。ユキトは入学すればいやでも毎日通う道を、歩いてみるといい出し、ひとりで出発した。その胸に、どんな高校生活があったのか、いまでは誰にもわからない。  坂の上で、誰かが大きなクラクションを鳴らした。  ハルはがばりと石に抱きついた。 「一緒に行っていたら、ユキトを助けられたかもしれないのに。ごめんな、ユキト。ごめんな、みんな」  草が糸で引かれたようにつうっと、ハルのとなりに立った。草も、ことばがすぐに出てこない。 「おれには、ユキトが死んだ責任がある。ずっと、自分が許せなくて」  ハルは泣き出しそうな声でいった。肩がぶるぶるふるえていた。 「おれも」草は、いう、 「おれも断った」  ハルは草のまなざしの温度を確かめるみたいに、ゆっくりと見上げた。ふたりは、口も開かずに会話しているように見えた。  あれ、今、ウグイス鳴かなかったか?  スズメが何羽か、川べりをつついている。しゅっと空を横切ったのはムクドリだろうか。けれど確かに、あの鳴き声はウグイス。  少し待つ。ああ、春なんだなと翔太は思う。春を、待つ。ほら、また、春が鳴く、ほーほけきょけきょ。ハルと草はまだ、見つめ合っている。 「ひでえ」  翔太がいうと、ふたりはびくんとはぜた。肩が、背が、横顔が、緊張している。翔太は本気であきれてしまった。こんな状態のふたりを、はじめて見た。  ユキトの石のまとうなにかに、変にかぶれたに違いない。そりゃ誰だって断るだろう、用もないのに天気の悪い日に歩いて入学前の学校に行こう、なんて。 「なんでふたりだけなんだよ、おれ、誘われてない」  ユキトの、口を半開きにしたアホ面を、翔太は思い出す。ふたりはそれとそっくりな顔でぽかんとしている。おまえの「変」って、たまに伝染すっぞ、ユキト。 「さいっあく、最後に仲間はずれかよ」  翔太は石を指さした。「だいたいおまえはね、いっつも他人の都合考えなくて、昔から思いつきで動きすぎ」  そこまでいいかけると、草がいった。 「翔太、あの日、前の晩から夕方まで出かけてただろ、だから声をかけなかったんだろう」 「あ、そっか」  一回テンションをあげただけに、やりかけた説教モードは簡単に切り替わらない。てれくさい。  そういえば、そうだった。従兄んとこに泊まりに行ったんだった。もしいたら、声をかけられていたかもしれない。誘われていたら、いっしょに行ったか? 行ってない。止めていたか? 止めてない。  確か、桜とかまだ全然咲いてない、寒い日が続いていたんだっけ。うちに帰ったとたん、ユキトんちからソッコー電話があって、居場所を知らないか尋ねられたんだ。知らなかったから、答えられないのはあたりまえなのに、あの答えられない苦さは、今も舌の先に残ってる。  ユキトへの文句は飲みこみ、ふーと息を吐いて、翔太はもう一回お供えの前に座った。ハルがゆるゆると起き上がり、場所を譲った。  翔太は手を伸ばす。ぺたん、ハイタッチだ。 「ちびたー」  石は、冷たい。本物の墓石ではなく、ざらざらした、漬け物石くらいの大きさの、きれいな石だ。  ユキトはすごい才能をいくつも持ってたけど、同じくらいダメダメなとこもあった。翔太は思う、振り子の原理だ、片方に大きくふれた振り子は、同じだけ反対にも振れる。どちらも同じ振り幅で、それが当然なのだ、ユキトだってそうなのだ。だのにこのふたりは、片側にばかり気をとられている。  ばかばかしい。ふたりはユキトの死に責任を感じているのだ。コピーしたみたいに、おんなじふうに。おさななじみってのは、痛みすら似てくるのか。  石は、冷たい。手のひらから伝わってくる。翔太の中にそれは記録される。黄色の、すごくいい匂いのフリージアにそっと触れ、ネクターの缶を撫でる。指先で確かめる。これで、背景じゃなくなった。そこにあるもの、になった。  さっきのろくろーと同じだ。それまでろくろーは消えかかった思い出だったのに、手を合わせたら、ちょっと力入れすぎで痛くて、におって、何いってるかわかんなくて、でもそれをひっくるめた、ろくろーという存在そのものを思い出させた。  ユキトの首に、腕を回して飛びついたことがあった。ひょろひょろして、折れそうに細かったっけ。すべすべな肌で、そうだ、汗のにおいも覚えてる。とたん、ユキトの「生」が、いきなり、におい立った。こんなになまなましいのに、ユキトはもういない。  死ななきゃよかったのに、翔太は唐突に思う、ユキトがここにいたらいいのに。  いっしょにもう三年間、学校通って、そうしたら翔太の草依存症もここまでひどくなくて、いや、翔太はしっかりものになってて、ユキトに説教していたりして。  そこまで考えてやっと、ふたりがユキトのどこを見ていようと美化しようと、まあいいかと思えた。そのくらい大目に見てやろう。ユキトは死んだりすべきじゃなかった。ちょっとの美化くらいは、サービスサービス。  振り向くと、草とハルは身をよじって笑っていた。何がそんなにおかしいのか、ふたりとも目に涙をにじませるレベルの笑い方だ。どうせ尋ねるのも無駄な、くっだらないことでツボっているんだろう。  毎日通う道を、歩いてみよう? いかにもユキトがいいそうだ。  もしかしてユキトは、三年間、この道を通りすぎるだけにしたくなくて、歩こうとしたのかもしれない。道はほこりぽくて、花は香りがして、鳥はうるさくて、あれもこれも、ちゃんとあるとそこにあると、確かめようとしたのかもしれない。ユキトならそんなこと考えそうだ。  翔太は立ち上がって、二人の肩を叩いた。固い。感覚はあった。ふたりはそこにいた、存在していた。そのことがうれしく、かえって憎まれ口になる。 「そろそろ行かんと。いつまでふざけてるんら。だらぶちが」  だらぶち、は方言で、「あほ」「ばか」くらいの意味の「だら」、その語尾に、「ぶち」をつけて、すこし非難を弱める。  一回、ユキトの石を見やってから、坂に向かう。足のしびれはおさまった。手袋をしなおす。山なみにさえぎられていた陽が、あたりを照らし始めていた。  左からの、川面のきらめきがまぶしい。  ユキトの「大部分」がまだ眠っているかもしれない、川だ。  向こう岸で、さっきの雨で洗われた新芽が、川面にかぶさっている。山の稜線は鮮やかで、空は塗りたての青だ。何もかもがそれぞれの色を、一歩前に近寄ってくるように主張する。  朝陽をあびた世界は美しい。  ユキトは知りたかったんだろうな。「おまえも、だらぶちやなあ」と胸の中で話しかける。  翔太は大きく息を吸って、一歩踏み出した。新しい世界への、第一歩のつもりだった。不安もさびしさも抱えて歩く歩いていく、決意の一歩だった。  べちゃ、と足元で嫌な音がした。  じわり、と冷たい嫌な感覚が這いのぼってくる。下を見ると、足が、今日おろしたての新品の靴が、道ばたに残っていた雪のかたまりに埋もれていた。
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