1 ハルは空を見上げた

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1 ハルは空を見上げた

 ハルは空を見上げた。夜はまだ明けず、灰色の空に星はない。闇が降りてきたように、すっと肩が冷える。それから、いつものようにふり返る。  いってきます、小声でいった。まだ五時前、玄関の奥は暗く静かだ。だのに、気配があたたかい。両親も祖父も年の離れた妹も、みんなまだ寝ている。こうして静けさの中でふり返るのは、今日で最後かもしれない。  引き戸の取っ手に手をのばすと、ブレザーの肩のあたりが突っ張る。二年生になるとき買い替えた濃紺の制服だが、それ以降も八センチ身長が伸びた。  この前、学校から帰ってきたハルに、祖父が新しい制服を買ってやろうといい出した。 「やっぱ卒業式な、新しい制服着んと。手も足もつんつるてんや」  祖父は一杯やってて、ご機嫌だった。 「いいよ、これで。あとすこしで着んがに、もったいないって」 「金ならじいちゃん出してやるぞ。なんせおまえな、この村の、陸上の有名人ねんしな。パリッとしとかんと」 「いいって。それなら新しいシューズのほうがいい」 「ズックかあ」  短めの袖丈も、肘がかすれ気味の布地も、今日一日のがまんだ。ゆっくり戸を閉める。シューズは今度、大学の監督に相談して選ぶことになっている。  外に出ると、息が白くにじんで、すぐ消えた。細胞のひとつひとつが澄んでいく。山と、海のにおい。いい空気だ、と思う。鼻が軽くつまって、かみたいな、と思う。音をたてて家の中に戻るより、これから会う草に頼もう。草ならティッシュくらい持っているだろう。  鼻をすすってから、手をコートのポケットに突っこむと、右手の指先が携帯電話に触れた。取り出してみる。メッセージは来ていない。急な予定変更はないようだ。  夕べの電話を思い出す。相手が誰かよく確かめず、耳に当てたとたん、携帯から、ハルの名を呼ぶ野太い声が響いてきた。「谷吹波流(やぶき はる)か?」高沢は中学生と間違えられるくらい小柄で童顔なのに、声だけは中年のおっさんだ。  高沢、なんでおれの番号知ってたんだ?  学校は違うし、共通の知り合いもいない。びっくりして問いただすのも忘れたけれど。ハルは考える、高沢はいろんなつてを使って、携帯番号を手に入れたに違いない。あいつは顔が広そうだし、そういうことができる性格だ。  あぜ道の霜が靴底でざくざく折れる。道はうっすら白く浮かびあがって、伸びていく。遠くから、気の早いニワトリの鳴き声が聞こえる。  走りたいな、と思う。毎日走っても、いつも思う、走りたい、と。走っている最中でさえ、走りたい、と思う。  待ち合わせは、坂を下りた田んぼの真ん中だ。バス停の標識は途中で、くねっと折れ曲がっている。ハルが小さいころからそのままだ。電灯が一本、バス停に寄りそい、あたりを小さく照らしている。 「おっはよー」  そのスポットライトの真ん中で、嬉野翔太がぴょんぴょん飛び跳ね、手を振っている。顔は表面張力いっぱい、満面の笑みだ。まだ昇る前の、お日さまがここにいる。ハルは道を駆け下りた。 「朝からテンション、高いな」  そういいながらハルも両手をあげ、翔太のハイタッチを受けた。翔太はわざと白い息をまき散らし、汽笛の口まねをする。機関車トーマス、小さいころからの物まねだ。「ほっほー!」昔から、ぜんぜん似てない。  翔太はいった。 「こんな早く起きたの、生まれて初めてかもしんない。ハルちゃんは、トレーニングで毎朝早くに起きとるし慣れとんない?」 「ここまで早く起きんし」  息をすると、鼻の穴がくっつきそうに冷える。翔太はじろじろ見てきて、 「ハルちゃん、太らんね。おれ、部活やめたら最近腹がヤバい」 「翔太も走れば?」 「無理無理、もう一生分走りこんだ、もうもう嫌」翔太がほっぺたをぽんと叩き、「寒いねー」  もう一人はまだかとハルが見回すと、翔太もつられて頭を巡らせる。  あぜ道から、夜明け前の、不思議な色の山を背に、人影が浮きあがった。旭尾草(あさお そう)だ。ライトを持っているのか、手元がちらちら光っている。  草は道にささった杭みたいにひょろりと立って、近づいてくる。翔太が奇声を上げながら駈け寄る。草も片手でハイタッチ。ばちん、でかい音がそのまま待っているハルのところにまで聞こえてきた。 「翔太、後ろ髪、はねてる」  草がくすくす笑いながら指摘した。くすくす笑う、なんてしぐさが、嫌みなくできる人間を、ハルは他に知らない。右手に青白いLED電灯を持ち、黒いダッフルコートのすそをたなびかせ、今日の草は悪い魔法使いのようだ。 「うわあ、こんな大事な日に、髪、めちゃくちゃやん」  翔太が後頭部を触り、あわててなでつけている。ハルも、くすくすではないけれど、笑ってしまう。今のところ、翔太ほどどたばたした人間も、他に知らない。  ふたりはゆっくりハルの方にやってくる。明日からは見られないツーショットかもしれない。ハルの胸が、さっき家を出るときのように、じんとした。
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