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4 三人はさらりと歩き始めた
遠くの病院に行く、という口橋んとこのおじじが去ってしまうと、三人はさらりと歩き始めた。しばらく、道路は田んぼを抜けていく。歩道なんてない。
「しゅっぱーつ、ぽっぽー」翔太が大声を上げた。だからうるさいって。
立ち話のせいで身体が完全に冷えた。足首からふくらはぎ、膝、太もも、歩きながら、ハルは内側から身体をゆっくりたどる。どこにも違和感はない。高校で本気で走るようになってから、ハルは自分の身体を強く意識するようになった。
腰まで意識がいったところで、もう一度、足首に戻る。去年のインターハイ五千メートル決勝でひねった部分。大丈夫だ。
ハルはほとんど怪我をしたことがない。だからあの瞬間、何が起こったかわからなかった。調子がいいくらいだったのだ。予選よりいいタイムが出そうだった。手も足も軽く、飛ぶような。グランドに転ぶまで、自分は絶好調だと信じていた。もしかしたら自己新、十四秒を切るかもしれないと。
見失った、そのせいだ。いまではハルにもわかっていた。うかれのせられて、いつも思い浮かべていた走りを忘れていたせいだ。ごめん、と心の中で謝る。
大学の陸上部では、ハルたち選手の体調を管理してくれる専門家がいるのだそうだ。腰、脇腹、背骨、大学に行ったら、もっと細かく身体の部位について勉強もする。そうしたら他人の身体もこうしてたどれるだろうか。
たとえば、ハルは考える、高沢はどうだろう。中肉中背で体脂肪が低い以外は、ほとんど特徴のないハルと違い、高沢は主に足にびちびちと筋肉がついている。長距離のための遅筋だ。
自分を追い越し、優勝したあの選手はどうだ。無駄なラインはほとんどなかった。陸上向きの、バランスのいい身体。予選で見た、一歩一歩踏みしめるような走り。あれが高校生、日本一の走り。タイムは十三分四十九秒〇二。
いや、ハルははっきり思う、ユキトの方が、美しい。
「待ってよ、ハルちゃん、早えよ、早すぎ」
翔太が横に来た。
「あ、ごめん」
いつの間にか、早足になっていたようだった。
「最近、体力も落ちてるなー」翔太はふうふういう。「あ、いいとこ、みっけ」
道の隅っこ、水たまりが凍っているところがあり、翔太はわざとそこを踏んだ。ちいさく、ぱりりと氷の表面が割れた音がする。あんなことしてたら、ぜったい今にすっころぶぞ。
その後ろを、草が涼しい顔でついてくる。
道なりに曲がる。棚田はとぎれ、足もとに、深い闇のような海が広がった。夜の海は空より暗い。
「怖えね、こんな時間の海って初めて見た」翔太がいう。
「誰かに聞いた話だけど」草が話し始めた。
「満月の晩、夜の海は地の底まで届く、大きな空洞になるんだって。それである地方では満月には船を陸にあげ、けして海に出さない。けれどある晩、仲を反対された恋人たちが、家族に追われて禁を破り、小舟で海に出た。それは、満月の夜だった」
「え、え、どうなんどうなん」
恋愛体質の翔太には聞き逃せない展開らしい。
恋人たちの舟は沖に漕ぎ出し、海の闇にふれると、静かにすいこまれていったんだって。
草の声は低く、やわらかい。闇の中、どこから聞こえてくるのかわからなくなるほど、胸に響く。
恋人たちは手に手を取って、ひたひたと押し寄せる海水に沈んでいく。追っていた者たちはみなあきらめ、浜辺からふたりを見送る。波にのまれた恋人たちは深い眠りに落ち、そして目覚める。そこは海の底の裏、常春の楽園。
草がハッピーエンドで話し終えると、翔太がへたな口笛を吹いた。「ソコは底だったって、ダジャレ?」
「あ、そのオチ、先にいうなって」
ふたりはげらげら笑った。
陸から見る夜の海は、どこまでも闇だ。たましいまですいこまれそうだな、とハルは思う。たくさんのたましいをすい、だからあんなに光を通さないのかもしれない。
そうしたら、あいつのたましいもあそこにいるのかも、しれない。常春の、国に。
その想像はやさしく、ちょっとしあわせになった。
道路は大きなカーブになって、国道に合流する。国道には道路の両脇に歩道があるが、長い間整備されておらず、荒れたコンクリートはでこぼこして歩きにくい。凍っているような箇所はない。
街灯が増えてきたが、草はライトであたりを照らし続けていた。車がたまに通る。三人のスクールバッグと、ハルのシューズには反射板が貼ってある。こんな時間に人が歩いているとは思ってない運転手への、目印になるはずだ。
二車線の両側に民家が並ぶ。ガードレールに守られた歩道も現れた。ここはもう別の町だった。
はあと息を吐くと、まだ白く浮きあがる。ポケットの中の指先が、もらったキャンディに触れた。そうだ、小腹がすいてたんだと、ハルは五百円玉くらいもあるアメを口にほおりこんだ。
潮のにおいが一瞬むんと来て、すぐに消えた。波音は遠く、朝の気配はまだささやかだ。
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