6 身体が温まってきた、と草は思った

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6 身体が温まってきた、と草は思った

 身体が温まってきた、と草は思った。直接外気にさらされている、耳や鼻の頭は冷たいけれど、足はなめらかに動く。出がけに調べた予報では、今日一日、雨は降らない。晴れ上がるほどでもない。  気温は最低4度、最高12度。式が行われる午前中、だだだっ広い体育館は、真冬並みの冷たさを抱えこんでいるだろう。  目の前をハルのシューズが規則正しく動いていく。かかとに貼った反射板が、一歩ごとにちらちらと白く、風に揺れる花のようだ。  翔太の靴はズボンのすそが長くて隠れているけれど、様子からして新品の革靴らしい。新生活のために選んだのだろう。山に入れば、道路のはしはしにはまだ雪が残っている。たぶん、翔太のことだから、一回は足を踏み入れて、大騒ぎするだろう、目に見えるようだ。  自分はというと、今は慣れたシューズをはいているが、替えも用意している。答辞のために演台に上がるので、きれいめのシューズが必要だった。 「校長先生、元気かなあ。もう少し遅い時間だったら、今日会えたかなあ」  翔太がいい、草はもう定年して現職ではないだろうと思ったが、これ以上のショックを与えないため、あいまいにうなづいた。  毎朝、小学校の校長が黄色い旗を持って誘導してくれた、交差点を過ぎる。校長は横断歩道を渡ってきた生徒に、いつも両の手のひらを向けた。赤みがかった、丸い手だった。生徒はみんな少し背伸びして、ハイタッチをする。そうか、翔太のハイタッチ癖はここから生まれたのかも、と、急に謎が解けたような気になった。  昔の草は遅刻しないか心配で、正直、ハイタッチは好きじゃなかった。時間がもったいなかった。そのぶん早く、教室に行きたかった。反面、丸顔の校長に笑いかけられると、浮き立つきもちもあった。  かわいくない子どもだったな、自分でも思う。  ギリギリの登校になるのは、いつもユキトのせいだった。ユキトはのんびり屋で、うちまで迎えに行ってもなかなか出てこないし、歩き始めれば何かに気をとられて、すぐ立ち止まった。  小学校前を過ぎると、脇に坂道が現れる。その先に三人が通った中学校がある。今は、桜並木の影に沈んで、校舎はほとんど見えない。中学校まで、クラスはずっと二学年合併クラス。 「小学校も中学校も、いい学校だったな」  今日のハルはめずらしく、情緒的なことを口にすると、草は思う。ほんとほんとと、翔太がなぜか腕をぐるぐる回しながら答える。  手のひらでぎゅっとにぎったおにぎりみたいな、学校だった。  鬼ごっこ、海遊び、洞穴探検、たぶん自分の過ごした日々は、黄金の子ども時代、というやつだろう。それはいつも、過分な甘さと、かすかな胸のうずきとともにある。楽しいだけじゃなかった。けれどもう、それが許せない年齢でもない。 「ハルちゃんはあのころからよく走ってたなあ。そして飽きもせず、進学しても陸上部」 「飽きもせずってなんだ」 「うわ、うしろから首絞めんなよ、助けてー」  小さな学校を出た村の子どもは、だいたいそのまま同じ高校に行く。市内のほとんどの高校生が集う、偏差値が幅広い、田舎によく見られるタイプの高校だ。  村の子どもは、去年も今年も来年も同じみたいな子ども時代を過ごす。もうすぐ知らない場所に自分はほおり出される、と気がつき始めるのは、高校二年生ごろになって、やっと。そう、村とまったく違う別世界でこれから生活しなくてはならなくなる、初めての不安。  けれど卒業しようとする草に不安はなかった。未来は未知ではない。決まっている、見えている。 「草ちゃんは? 大学行ったら、サークル入る?」 「まだ合格発表前だから、仮定の質問には答えかねる」 「またまたー」  うそだ。先週受けた、第一希望校の入学試験に、自分は合格している。草はそれを知っていた。たぶん、は不必要だ。  昔から草は試験のたぐいで、自分がどの程度の成績か、かなり正確に予測できた。というか、自分が取れた点数がわからないで騒ぐ同級生の方が、不思議だ。ゆいいつ、一度、高校に入学するときには、軽く緊張した。自分が井の中の蛙な可能性はあった。けれど入学式で、草は新入生代表を打診された(地すべり事故のせいで、当日の代表の挨拶は取りやめになったけれど)。ちゃんと、思ったとおりの位置につけていた。  自分は、大学入試でも合格ラインに入っているだけの成績を、とっているはずだ。四月からは、東京で新生活だ。どんな毎日かもわかっている。家の経済状態から何かしらのバイトはするだろう、そこそこ身体を動かすサークルに入るだろう、講義はまじめに出るだろう。  学術テストだけではない。草は何においても、自分の立ち位置がどのくらいか、給食当番の中でも、サッカーのチームでも、生徒会内の力関係でも、わかっていた。無意識で推し量ってしまう。自分がどれほどのものか、いつも冷静にすくい取れるというのは、けっこうな不幸だ。  すべきことをまっすぐ見つめているハルや、新生活への期待と不安に揺れる翔太に比べ、自分は色がない。  こんなふうに、たった三人でいてでさえ、草は他のふたりと自分を比べてしまう。無意味なことだと知っているのに、だ。そんな自分がうっとおしい。  ユキト、おまえのせいだよ、  草がそう思ったとき、 「うわあああっ」  この世の終わりのような、叫びがあがった。
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