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「気をつけて行ってきてね。治安の悪いところには行かないでよ」
「うん。……行ってきます!」
マンションの玄関で送り出すと、夕闇がすぐそこまで迫っていた。
もしかしたら、もう帰って来るつもりはないのかもしれない。
帰って来ても、もう母はいない。
きっと母は、宏海ちゃんにとって、唯一無二の存在だった。
旅先で、母に似た人を探すだろうか。
それとももう、誰にも惹かれることはないのだろうか。
もう戻らない、と言ったら引き止められる。
だから、行ってきますと言って出てゆく。
行き先は、風が決める。
自分で選んでいるようで、実は皆、風まかせだ。
かつて宏海ちゃんに寄せた慕情の片鱗が、胸の底でざわめく。
涙は出なかった。
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