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引越し
気持ちが通じてからは、早かった。
就職の話はなしだ、出ていくのもなし、紅ちゃんの学費と生活費はオレが出す、と言って、宏明さんは、私を母と暮らしたマンションから1人暮らし用のアパートに引越させた。
そしてマンションは解約した。
「ここは社宅扱いだっていうし、沙織さんがいなくなった今、紅ちゃんを1人で住まわせるわけにもいかない。周りの目もあるし……ごめんな」
宏明さんは言ったけど、
「もともと出なくちゃいけなかったのに、色々あって延びていただけだから、こっちこそごめんなさい」
と謝った。
母は、もういない。
生まれ育ったマンションは、荷物を出してみたらガランと広くて、隅々にまで思い出が詰まっていた。
ひとつひとつを拾い集めて胸にしまってドアに鍵をかけた。
バイバイ、と声をかけたら、バイバイ、と答えたような気がした。そのくらい付き合いの長いマンションだった。
母の荷物は、ほとんど全部処分した。
1人暮らし用のアパートには置くスペースがないから。
取っておきたいものは、無理して処分しなくても、倉庫を借りてもいいんだし、と宏明さんは言ってくれたけど、それはしなかった。
いつまでもしがみついたって仕方ない。
母はもう戻ってこないのだから。
ただ、母の結婚指輪だけは手元に置くことにした。
母の恋の形見。父と母が愛し合ったしるし。
引越し先のアパートは、学校の側で、セキュリティがしっかりしていた。
費用は宏明さんが負担してくれたけど、表向き、このアパートは、病院の管理下ということになった。
「紅ちゃんは、勉強に専念させて、卒業したらうちの薬局に入ってもらう。いわゆる、青田刈りだ」
次期院長の宏明さんの鶴の一声で、下世話な人達も、みんな黙った。
私達のことは、当面言わないことにした。
特に成子さんに知れたら大変、ということで。
でも宏明さんは、おじいちゃんにだけはそっと打ち明けた。
おじいちゃんは驚いていたけど、特に咎めるでもなく、とにかく大事にしてやれ、とだけ言われたそうだ。(ちなみに「紅ちゃんの学費と生活費は俺が負担する、俺のかわいい孫娘だ、その役はお前にはやらん」と、まとまったお金を渡されたらしい)
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