逃稿

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 車窓から見える稜線は、まるで監獄の土壁のようだった。どこまででも続く同じ景色は、感情を閉じ込めた自分には似合いの景色なのかもしれない。人は過ちを犯す。それが正義であれ不正義であれ、過ちかどうかは相対的に決まる。外の世界に憧れた自分の気持ちは、過ちだったのだろうか。絵空のような景色に想いを馳せ、外界へ飛び出したい欲求。相対的不正義。悪でしか無い。ここに居るだけでそう帰結する。外の世界を思い描くだけならまだしも、欲求になってしまっては取り返しがつかない。だから閉じた。自らの心奥深くに仕舞い込んだ、そのことすら思い出せないように固く、錠を何重にもかけて閉じ込めた。  視線を戻すと光を正面から受ける山肌は、見えなくなっていた。どうやら眠っていたようだ。先程までの景色に代わり、落ち窪んだ目をたたえる妙に痩せた、見慣れた顔がぼうっと目の前に浮かんでいる。自らの罪を心の奥底に仕舞い込み、見えぬはずの物を恐れる青年の顔だ。曇りまなこで、眼前に広がる世界すらも知覚できているか危うい青年の顔だ。ふと、耳元で誰かが囁く。慎ましく生きよ。この車両にはうたた寝している老婆しかいない。慎ましく生きよ。もう一度聞こえた。振り返るとそこには少年の顔があった。希望に満ち溢れた嫌いな目だ。生命力に満ち満ちた気色の悪い肌。自信に満ちた発言を飛ばす不気味な口。ああ、何て憎たらしい顔なんだろう。この醜い顔に何度も騙された。分不相応な夢など、ガラクタでしか無い。遠い空を眺めるその目には、あの稜線など映っていないのだろう。土壁に囲まれ、身動きなどとれやしないのに、何処までも進み続けられると信じて止まないのだろう。幻しか見ることができない義眼。頭に浮かぶ空想。曇った望遠鏡よりもタチの悪い、まるで万華鏡のようだ。  気がつくと、既に最寄り駅のアナウンスが鳴っている。毎日繰り返される長旅に軋んだ関節を鳴らしホームに降りる。今日は少しばかり頭が軽い。澄み渡ってるわけでは無いが、いつもの陰鬱な感情よりはまし。遠くで警笛の音がしている。目の前の光景が、いつもより煌めく。近くの踏切が降り始めている。ふと、ここにはありもしないはず好奇心が頭をよぎる。稜線の向こうには海が広がるのだろうか。土壁の向こうは青々とした空が広がるのだろうか。視線が下がったのはいつからだろうか。もう一度、このまま真っ直ぐ歩いてみようか。
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