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互いの家門に相応しい男女が婚約するのは、貴族社会では当たり前のこと。
親が決めた婚約者ではなく他の相手に心変わりをすることも、よくある話。
でもそれが自分の身に降りかかるとなれば、話は違うーー
***
「君との婚約を白紙にして欲しい」
事前の約束も無く突然尋ねて来た婚約者ーーアイザック・デナムは、来客用のサロンに入るなり芯のある声で言った。
その眼差しはとても真剣で、揺るぎない決意を秘めていることを否が応でも知る。
宵闇よりも深く艶のある漆黒の髪。磨き上げた宝石より美しいアメジストのような瞳。整った顔立ちに加えて、幼い頃から剣術をたしなむスラリとした体形の彼は、エステル・ロニーの全てだった。
そんな彼が、自分に向けて別れを切り出した。
受け止めることなどできるわけが無い。
なぜなら彼を失うということは、エステルにとって心臓を失うようなもの。親が決めた婚約者とはいえ、彼に恋い慕っているのだから。
「まずはお座りになって」
動揺を隠す為にエステルは、アイザックから目を逸らすと一人用のソファに着席した。胸に流れた栗色の耳に掛けようとしたら、笑ってしまうほど手が触れている。
ロニー家の人間が代々受け継ぐシアン色の瞳は、陰りが出ていないだろうか。鏡が無いからわからない。
どうか気付かれませんように。そして今発した彼の言葉が質たちの悪い冗談でありますように。
そう祈りながらアイザックを見つめれば、遅れて彼も向かいの席に腰掛ける。
普段なら長い足を持て余すように組むというのに、今日に限っては皇帝陛下と向かい合っているかのように居ずまいを正している。
その態度が、自分と彼の関係を如実に表していて、エステルは胸が締め付けられるように苦しくなった。
屋敷の中で一番日当たりの良いサロンには、自分たち以外誰もいない。
本来なら未婚の男女に間違いがあったらいけないと、部屋の隅に侍女やメイドを待機させるのが一般的である。
しかしアイザックは、ロニー家では絶大な信用を得ている。
彼に限ってはそんなことをしないだろうと両親も弟も口を揃えて言うけれど、その人がまさか婚約を破棄したいと願うだなんて誰が予言できたであろうか。
それほどアイザックは、エステルを大切に扱っていた。
誠実に真摯に。向けられる眼差しはいつも穏やかで、声を荒げたことなど一度も無い。もちろん約束を反故にしたことだってなければ、傷付ける言葉を向けたこともなかった。
けれども、それは儀礼的なものでしかなかったのだろう。
奇麗だと言ってくれたその言葉も、これからよろしくと微笑んでくれた表情も、僅かな段差でも手を差し伸べてくれたその仕草も、全部全部、婚約者としての義務を果たしていただけなのだ。
とどのつまり、彼にとって自分は特別な人間ではなかった。その他大勢の一人に過ぎなかった。
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