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直寿はキャンバスを前に固まっていた。手の中の絵筆は、握られ続けて汗をかいていた。
「ナオー」
不意にがちゃりと部屋のドアが開き、千尋が顔をのぞかせる。
「あ、ごめん、絵描いてた?」
「いや」
キャンバスから目を離さない弟に、千尋は首を傾げた。いつもすらすら描いているのに、今日は不調かな?けれども、こと絵に関してこだわりのある直寿が、とやかく言われるのは好きじゃない、と分かっている千尋は質問しないことにした。
「私、公園で仕事しよっかなって思ってるんだけど、ナオは来ない?」
直寿の視線が千尋とかち合ったとき、千尋は自分の失言を知った。直寿は目に暗い影を落として、
「行かねえよ。そんなひとが溢れかえっているような場所」
と吐き捨てた。
「じゃあ、いいや」
千尋の声がかすかな悲しみを含んでいることに直寿は気付いたが、無視した。
「いってきます」
「……いってらっしゃい」
部屋のドアが乾いた音を立てた。
千尋は玄関でスニーカーを履き、立ち上がった。廊下を振り返るが、直寿は自室にこもっているようで、物音ひとつしない。まるで世界から切り離されているかのような沈黙が家全体を支配している。差し込む日光も、頼りなく漂う埃を照らすばかりだ。
空気の淀んだこの家で、直寿は毎日毎日過ごしている。ひとびとが暮らす外界を避けるように。千尋は出し抜けに、たまらない寂しさに襲われた。考えられないような孤独感の中で直寿は生きている。停滞した時に身を任せる直寿の心はどれほど冷えついているのだろうか。
冬だ、と千尋は思った。この家は冬の最中のように、凍ったままだ。春は来るのだろうか。
千尋は肩に黒いギターケースを背負い、玄関の戸をそっと開けた。
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