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「……っふ」
「憐、いま絶対妙な想像してたでしょ」
「してない、してない」
エスコートするように下から手を掬い上げられて、中へ促される。
「憐なら良いけどさ。ほら肩の力も抜けたでしょ? 行くよ」
あくまで下から手を添えられているだけで、握られているわけではないから気にならなかった。
離れようと思えばすぐ離れられるというのも安心できる要素だったのかもしれない。
エスコートするのが様になり過ぎていて、湊人に少し腹が立った。
「なんか……ムカつく」
「ええっ、オレのお姫様を部屋まで案内したいだけなのに⁉︎」
ムカついた理由は言葉にしてしないのに伝わっているのがまた腹が立つ。
「姫ってガラじゃない。それに湊人のでもない」
「ちっ、バレたか」
「湊人うるさい。静かにしろ。近所迷惑」
「辛辣っ」
マンションの中もホテルみたいだった。
——ダメだ。今日は違う意味で眩暈がする。
コンシェルジュがいて、ホールがあって、また専用のエレベーターまでもがある。
極め付けは隣にいる煌びやかな男だ。高級マンションにいても違和感がなさすぎて嫌になる。
こちらとしては脳まで酸素が回らないというのに。
湊人の部屋に入ってリビングに通される。
「ソファーに座ってちょっと待ってて」
湊人はそう言って、奥にある部屋に入っていった。
——何部屋あるんだろう、ここ。
リビングだけでも三十畳近くはありそうだった。
七人掛けサイズのソファーも座り心地良くて癖になりそうなくらいだ。
見える範囲のとこを見渡していると、黒い小型アンプが目についた。
——何でアンプ?
思考を巡らせていると、湊人がギターを肩掛けにして戻ってくる。
「ギター?」
「そ! 一人思い当たる人がいてさ、この一か月教えて貰ってたんだ。前にオレがリクエストして憐に歌って貰った曲は弾けるようになったんだよ」
持ってきたギターを小型アンプと繋いでいた。
湊人がギターの弦にピックを走らせる。初心者とは思えない程の滑らかさで曲を弾き始めた。
耳障りの良い音色に聴覚を刺激される。
——どうしよう。ソワソワする。歌いたい。
無性に歌いたくなって、湊人を見ると「一緒に歌おう?」と言われて頷いた。
ギターの音色に合わせて憐も唇を開く。
弾き手と歌い手として、初めて二人で曲を奏でた。
「何でも出来るんだな、湊人。仕事もあるのに凄い」
「だって憐と一緒に楽しみたいんだもん。こんなの苦労の内に入らないよ。オレの趣味みたいなもん。続きはご飯食べてからにしよ? 憐が来てくれるのが嬉しくて、オレちゃんと手作りしたんだよね」
「手作り……⁉︎ 楽しみだ」
器用過ぎるにも程があるだろう。感嘆の吐息が出た。
「でも味は期待しないでね」
そう言った湊人をチラリと見上げる。
「すっごいのが出てくるんだろ?」
「ねえっ‼︎ 一気にハードル上げるの辞めてくれる⁉︎」
湊人の反応がおかしくて笑いをこぼす。
すぐ後についていって、湊人がパスタ麺を茹でている間にスープを入れるのを手伝った。
「湊人、そんなに頑張らなくても、俺はありのままの湊人が好きだよ」
「え……」
「俺の一番の友達だから」
固まっていた湊人が一気に萎れる。
「どうかしたか?」
どこか哀愁を漂わせたままパスタ麺をかき混ぜている湊人を尻目に、テーブルの上に運んでいく。
「うん。知ってた……。憐は天然タラシって、オレ昔っから知ってた。知ってたよ……」
「妙な事を言うのはやめてくれ」
湊人が作ってくれた料理は、店を出してもおかしくないくらいに美味しかった。
***
初めて湊人の家に行ってから、湊人も憐の部屋に来るようになった。
湊人の住むマンションとは違って、此処は騒音が筒抜けだから、もっぱら湊人の家に行く方が多いが。
もう互いの家を行き来出来るくらいには慣れている。
今は湊人が側に居ないと寂しさを感じるくらいだった。
「この部屋って本当にこんなに広かったかな……」
ボソリと二度目の疑問を口走る。
発作以来、湊人はむやみやたらに触れて来なくなった。触れる時は、先に憐の許可を取るようになっている。
でも腫れ物に触るような扱いとは違い、さりげない気遣いからくる物だというのが伝わるから憐としてはそれが嬉しかった。
湊人は自分を対等に扱ってくれる。
心に妙な圧がかからなくて、となりにいても自然体でいられた。
気を使わなくていいってのも大きい。
湊人のいる空間は随分と息がしやすくて、また心の拠り所でもあった。
「今度いつ休みだっけ」
手帳アプリを開く。
動画の撮影も今は湊人と休みを合わせて一緒にするようにしているから、手帳アプリ内の内容も殆ど一緒だ。
アングルの指定も、カメラの位置も湊人任せになっていて、編集も湊人の方が上手いので、ここの所ずっと任せっきりになっていた。
それプラス湊人がギターまでも担当してくれている。至れり尽くせりだ。
「二日後か」
憐はポツリと呟いて、就寝の準備を整えてからバスルームへと足を運ぶ。
次の撮影が楽しみだった。
◇◇◇
「湊人、最近嬉しそうね」
専属のマネージャーの新田友也に問いかけられ、湊人はにっこりと微笑んだ。
新田は柔らかなおねえ口調の男性である。
雑誌の撮影の為に楽屋に待機していた湊人は、新田と二人っきりだった。
「分かる? やっと初恋の子見つけちゃったからね。猛アプローチ中なんだよね」
「湊人に告白されたらイチコロじゃないの?」
「それがそうでもないんだよね。振られてばかりだよ。その子は、離れていた間に色々あったみたいで、とても繊細で傷付きやすいから。すぐにどこか消えてしまいそうで目が離せないんだよね。でも今は良い感じで距離を縮めていけてるとは思う。もっと笑って欲しい」
緩やかに表情を崩した後にはにかんだ湊人を見て、マネージャーである新田は目を見開いた。
いつも大人びた微笑みしか浮かべない湊人が、まさかそんな無邪気に笑うとは新田は思ってもみなかったのだ。
「なんか変わったわね、湊人。雰囲気が柔らかくなったと言うか、年相応に笑えるようになったと言うか。一端な男の表情もするようになっちゃって……正直驚いたわ」
「それは、その子のお陰だと思う。いつだって、何かしたいと思わせてくれて、オレを変えるのはその子なんだ。最近は一緒に歌に触れるようになって、オレの世界も広がったしさ」
「歌?」
「そう。動画アプリで歌ってるとこ配信してる子だからね。この子……」
湊人が動画を見せながら言うと「この子REじゃない!」と新田は驚いて見せた。
「新田さんも知ってたんだ。オレの初恋の子だよ」
湊人が破顔しながら言うと、新田が息を呑んだ。
REは顔出しを一切していない。その為に容姿については賛否両論の噂はあるが、湊人の趣味が良いのは新田も知っていた。
湊人と新田は、湊人が十五歳くらいからの付き合いだ。帰宅中の湊人に「モデルに興味ない?」と声を掛けたのが新田だった。
これは是が非でも相手の顔を見てみたいという欲が新田に生まれる。
「いつものとこのカラオケに一緒に行きましょうよ」
「えー……」
不服そうな表情で渋っていた湊人だったが、お世話になっている手前無下には出来ない。
「憐に聞いてみるけど、駄目だったら諦めてよ?」
そう言って、湊人は渋々電話をかけてみた。
湊人としては憐は嫌がって断るだろうと踏んでいたのだが、想定外の事が起きたのである。
『マネージャーさん? 前話してた人か。俺は構わないよ』
「へ?」
憐からの返事を聞いて湊人から間の抜けた声が出た。
まさかオーケーを貰えるとは思っていなかっただけに、どうしていいのか困ってしまったのは湊人だった。
「え、いいの? オレ以外に顔見られちゃうんだよ?」
『おかしな奴だな。誘って来たの湊人だろ』
「あ……うん。そうなんだけどさ」
湊人はどこか少し面白くなかった。
憐に対しては、昔から独占欲が強く働く。
「憐、無理しないでいいよ?」
『ん? してないから大丈夫だ。悪い。今から仕事入るからまたな』
早々に通話を終了させられる。
「で、どうだったの?」
「いいって」
「やったー!」
もう四十半ばとは思えない新田の喜び用に湊人は唖然とした。
だが、そうとなればカラオケに行く前に釘を刺す事がある。
憐に対して美人だとか色っぽいだとかそれらに関連するようなワードは言わないようにして、腕とかを掴む行為もやめてくれと湊人は念入りに注意した。
「そうなの?」
「前、知らずに口にしちゃってさ、その時に腕を押さえつけたのもあって、過呼吸にさせちゃったんだよね。憐は多分、接触障害なんじゃないかな?」
「何しようとしてたのよ湊人……」
新田が湊人をジト目で見つめた。
「誤解だよっ。オレはただ憐と話をしたかっただけなの!」
思っていた以上に大きな声が出てしまい、否定した湊人の言葉は逆に胡散くさくなってしまう。
「ええ……法に触れる事は駄目よ」
新田に念を押されてしまい、もう一度湊人が誤解だと伝えようとした所で楽屋の扉がノックされた。
「月城君、本番行けますか?」
「はい、行きます」
たった数秒のやり取りですっかり仕事顔に戻ってしまった湊人の背を追いかけて、新田が数歩後ろを歩く。
あんなに焦った湊人を見るのも初めてで、新田はこの十分くらいの間にどれだけ目を瞠ったかわからないくらいだった。
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