どうしても、また君に歌を届けたかった。

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 ◇◇◇ 『憐、大きくなったらここの海に行かない?』 『へえ、綺麗だな! 行きたい』  小学生の時、誰かが持ち込んだ旅行用のパンフレットを工場の事務所で広げて、湊人と一緒に見ていた。  空が溶けたように鮮やかな青い部分と、浅瀬になっているエメラルドグリーンの海は見ているだけでも心が躍った。  引き込まれてしまいそうな程に透明度も高くて、ずっと見ていても飽きないくらいだった。  海と地を隔てる砂は、今まで見てきたどの砂よりも眩しいくらいの白色だ。  直接自分の目で見て、波や砂に足をつけて確かめてみたい。そう思いながら頭の中でも想像する。何よりも湊人と行けるかもしれないと思うと嬉しかった。 『飛行機に乗って行くんだって!』 『ふーん。楽しみだな』 『うん! 約束ね、憐』  そこで、憐の意識は浮上した。 「夢か……」  夢に見る程に湊人を想っている。  ——ああ、そうか。俺もあの頃からきっと湊人が好きだった。  どうやらうたた寝していたらしい。  泊まっていた民宿のベッドから体を起こす。今の今まで忘れていた幼い頃の記憶を噛み締めた。  ——あの頃は楽しかったな。  実の両親がいて、工場内のスタッフも優しくて、湊人もいて、歌って、毎日駆けずり回って、何もかもが楽しくて輝いていた。  辛い事も悲しい事もあるなんて思わずに、当たり前の幸せだけを享受して、これが普通なのだと信じて疑いもしなかった。  憐は体の向きを変えて、窓から外の景色を眺める。  広がっている晴天の下にはあの日パンフレットで見た、混ざり合うような青が広がっていた。その隙間を埋めるように、小さな島が視界に入る。  狙っていたわけではなかったが、結果的にこうしてあの日湊人と約束した場所にいた。  ただ、約束をした湊人だけがこの場に居ない。  ——湊人が居ない。  シャツ越しに心臓に手を当てる。  不安で寂しくて、自分の周りだけがやたら空気が重くなった気がした。  湊人に別れを告げたあの日、憐は終電が無くなった駅のホームの近くで始電まで待った。そして目眩しの為に、それからあえて遠く離れた九州まで行って船に乗りかえると、今度は県どころか海さえも超えた。  近場で安い宿を借りるか、人気のなさそうな公園で寝泊まりする日が続き、バス移動する内に何となく気になった海に一番近い所で降りた。  光で反射すると目を開けていられないくらいに輝く真っ白な砂の上に、靴を脱いで素足で立つ。  思っていたよりも柔らかくて、自重ですぐに足が沈んで埋まった。  暫く立っていると、無性に歌いたくなってきて、憐は控えめな声量で音を紡いだ。  湊人に届けたかった歌が、今では湊人を想う歌へと変わっている。  二週間くらいそんな生活を続けていると、通りがかった人たちが拍手をしてくれるようになった。 「兄ちゃん、これ貰って? ちゃんと水分は取った方が良いよ」 「すみません。ありがとうございます」  唐突に五十代くらいの男性にペットボトルを渡されて、驚きながらも受け取る。 「あの、お金……」 「いらんいらん。歌のお礼よ」  後ろ手に手を振って、男性が去っていく。善意と、打ち寄せる波の音が酷く心地良かった。  キャップを開けて、ペットボトルに口をつける。  自分で思っていたよりも喉が乾いていたらしい。一気に半分くらいは飲み干してしまった。  心まで落ち着かせられる気がして、その日からその場所は憐のお気に入りの場所になった。  また一週間くらい日が経つと、口伝で噂になったのかどんどん観客が増えてきていた。  話しかけてくれる人もいて、口数が少ないながらも話をしていると、今度は身の上話にまでなった。  仕事は探さなければいけなかったので、住み込みで働けそうな場所を探していると伝えると、何人かの人が色々な場所を紹介してくれた。  人懐っこくて親切な住民たちに驚く。憐はその中で個室寮のあるサービス業を選んだ。  仕事の休みの日は、海へ行って歌をうたった。  もう動画撮影はしていないけれど、とても居心地が良くて、また、たまに貰えるリクエストにも応えて感謝の気持ちを込めて歌を贈る。  それは憐が意図せずとも、瞬く間に島中の噂になっていき、噂がまた人を呼んだ。そして噂だけには止まらずに、ネット内も賑わせるようになっていた。  REのイメージにぴったりの人がいる、という短文と共に、薄手のパーカーのフードを被りながら歌っている憐の斜め後ろから撮られた動画を誰かがSNSに投稿したのだ。  映っている憐は、湊人とカラオケに行った時に歌って欲しいと言われた曲を口ずさんでいた。  切ない歌声に魅了され、その動画は憐の知らない所でどんどん拡散されていった。  ——最近、やけに人が多い気がする……。  どうしてこんなに人が集まるのか分からずに、気兼ねしてしまう。  少しだけ場所を変えてみるも、またすぐに人が集まりだす。その繰り返しだった。  今日は普段より時間帯を変えて、朝の静かな海を一人で見つめていた。  ザッと砂を踏み締める音が聞こえてきて、いつもの観客だと思った憐は顔を上げる。そこには、意に反して湊人がいた。 「え……」  どうして? と問いかけたかったが言葉にならなかった。 「憐がここの海で歌っている動画がネットで拡散されてるよ」  全然知らなかった。人が増えた理由が分かって嘆息する。 「そう、なのか」 「ここに来るならオレも誘ってよ。二人で行こうって約束したでしょ?」  まさか覚えているとは思ってもみなかったから、憐は動揺を隠せずに目を見開いたままひたすら湊人を見つめた。 「憐、やっと見つけた」  眉尻を下げて微笑んだ湊人と視線が絡む。 「湊人」  次いで肩を竦めて見せた湊人が、となりに腰掛ける。  唐突に……しかも一方的に別れを告げたというのに、湊人は責めるわけでもなくそれ以上は何も言わなかった。  どうせなら責めて欲しかった。  自分勝手過ぎると(なじ)られても仕方のない事をした。 「ごめん」  耐えきれなくて口を開く。  波の打ち寄せる音が、酷く優しく鼓膜を揺るがせる。 「ここの海に来たのは初めてなのに、どうしてだろう。とても懐かしい気持ちになるね」  憐の言葉の後で少し間を開けてから、湊人はそれだけを口にした。 「…………そうだな」  小さな声で肯定する。 「憐はずっと此処に居るつもりなの?」  自らの足元へと視線を落とす。そして告げる。 「湊人、突然本当に悪かった。俺はもうあそこには戻らない。しばらくの間は此処で暮らそうと思っていたけど、ネットで動画が拡散されているんならまた移らなきゃいけない……」 「憐は見つかる度にそうやって生活をリセットしてきたの?」  静かな口調問いかけた湊人に、頷いて苦笑した。  それから、真実を告げる為に重い口を開く。 「両親が他界したって……前に話しただろ? 俺が、学校に行っている間に起きた……無理心中だったんだ」  つっかえながらも無理やり言葉に変える。 「え……」  声と共に驚いた表情をした湊人と視線が絡んだけれど、すぐに逸らして海を眺めた。
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