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「憐はいつも此処にはどうやって来てるの?」
「俺は電車だ。運転免許も取ってない」
「そうなんだ。帰りオレ送ってくから憐の時間ちょうだい? 久しぶりだからまだ憐と話してたい。ね、ダメ?」
捨てられないように懇願しているような、そんな必死な表情をされると断り辛い。
憐ははにかんで頷いた。その後、たわいない会話に移る。
こんなに誰かと長く会話をしたのは、過去に湊人と別れたっきりだったからか、最後らへんは喉が掠れてきていた。
「え、駅まででいいの? 家まで行くよ? むしろ憐の家行きたい」
「人を招けるような綺麗なとこじゃないんだ。明日朝早いからごめんな」
思わず嘘をついてしまった。
義兄の事があって、ベッドのある狭い室内で誰かと一緒にいる事に耐えられそうになかった。
いくら友人でも抵抗感がある。
当時あの人が車を所有していなくて良かったと心底思う。こうして湊人と車内に居られなかっただろうから。
「憐、じゃあまたね」
「うん。送ってくれてありがとう」
家の最寄り駅で降ろして貰って湊人と別れた。
湊人と再び出会った次の日、憐はスマホと睨めっこしていた。
メッセージが届いたのは良いが、何て返して良いのか分からずに悩んでいる。
互いの連絡先さえ交換できなかった小学生の時とは違って、今はもうスマホで自由にやり取りが出来る。
だけど、実際そうなってしまうとどうしていいのか分からない。
——普通の友達って、どんなやり取りするんだろう……?
会話をするように返せば良いのだろうが、顔が見えない分いささか緊張するのだ。
ベッドの上にうつ伏せになる。
返信に迷っていると今度は湊人から疑問系のメッセージが来るようになった。
これなら返しやすい。そう思ってからはスマホ画面に指を滑らせる速度が増した。
十一年もの隔たりなんてなかったかのように接してくる湊人は凄いと感心すると共に、その底抜けの明るさと人懐っこい性格に救われている。
心の中が宙に浮いているようで落ち着かない。でもとても温かかった。
***
約束の木曜日になり、部屋を出ようとした所で違和感を覚えて玄関の扉を閉めてから憐は足を止めた。
玄関のすぐ前に、泥だらけの足跡があったからだ。
確かに昨夜は大雨だった。
しかし昨日バイトが終わって帰宅した時にはなかったのを記憶している。
アパートの住人かとも思ったのだが、廊下から続き、ちょうど憐の部屋の前で足跡が途切れていて、他の部屋には続いていない。
自分の物より大きい足跡だったのもあり、もしかして……と嫌な考えに突き当たる。
でも義兄はこんなまどろっこしいやり方はしない。
見つけた瞬間にズカズカと土足ではいってくるだろう。
では誰だ? 思い当たる人物がいなくて、憐は足跡を眺めた。
何だかこちらの生活をじっくり観察されているようで気味が悪い。
——空き巣狙い?
家賃の安さで選んだ部屋は、隣人の生活音も聞こえるくらいに壁が薄い。
おまけに玄関の扉も、いま流行りの防犯対策仕様にはなっていなかった。
バイトの時間が押しているのもあり、憐はしっかり戸締りをして先ずはバイト先へと急いだ。
仕事帰りに憐が廃工場へ行くと、湊人の車はもう停まっていた。
——湊人早いな。
一人じゃない空間に少し戸惑いつつも、湊人が居ると思うと肩の力が抜ける気がしていた。
軽くやり取りを交わして、撮影の準備に取り掛かる。
「憐、今日は何歌うの?」
「実はまだ決めていないんだ。その時の気分で歌っている事も結構あったりするから」
勿論事前に調べて歌う事が多い。ただ今日みたいに仕事帰りに歌う時は、気分任せな時も少なからずある。
「ならオレ、リクエストしてもいい?」
「いいよ。俺に歌える曲ならの話だけど」
湊人がリクエストしたのは少しテンポの早い曲だった。
「へえ、湊人ってこういう音楽が好きなんだな?」
「うん。でも浅く広くって感じだからこれだけが好きってわけじゃないよ」
憐があまり歌わないロック系統だったのもあり、先に歌詞や息継ぎ場所、声質と歌い手特有の歌い方の癖を確認する。
湊人が流した音に合わせて試しに何度か口ずさむ。
——こんな感じかな?
動画を撮影する時用に使っている黒い狐の反面を取り出して、フード付きのパーカーの上から装着する。
憐は動画内で一度も顔出しをしていない。
イヤホンから聞こえるメロディーに合わせて歌を紡ぐ。
普段歌わないからか、新鮮な気分を味わう事が出来て中々良かった。
歌っている間中に湊人から熱視線を送られていて、それだけが気まずい。
何度視線を逸らしたのか分からないくらいだ。
「やっぱり格別だよね! それにしても憐て撮影中はいつも黒い狐の反面してるよね。何で? せっかく良い顔してるのに。恥ずかしいから?」
問いかけに自然になるような動作で足元へと視線を移した。
「顔出しは……したくないんだ」
詳細な理由は述べずに端的に答える。
「ふーん。そうなんだ。でもオレとしてはライバルが増えなくていいから良かったけどね」
湊人がボソボソと喋るなり口を閉じた。その代わりに食い入るように見つめてくる。
「湊人、あまり見ないでくれ。そんなに見られると恥ずかしいだろ」
その前に距離感がおかしいのに気が付いて欲しい。ずっとパーソナルスペースを広く保っていたのもあって、湊人との距離がやたら近い気がして落ち着かない気分にさせられる。
「え、だってオレ、全ての憐を脳内フィルムに保存しときたいから無理。寧ろまばたきすらしたくないよ?」
真剣な表情で告げてくるのもまた質が悪い。反応に困ってしまう。
「何だよそれ。俺を見ても面白くも何ともないだろ」
「憐の存在以上に尊いものなんてオレの世界に存在しないんだけど?」
「お前の世界狭過ぎだろ。モデルやってたら人との関わり合い広くなるものじゃないのか? そういう冗談が好きなとことかも変わらないな、湊人」
表情を緩ませて笑んで、湊人を見上げた。
変わったのは大人っぽくなった雰囲気と見た目だけだ。本質や中身はこれっぽちも変わらない。
——ああ、そうか。だから湊人に見つめられると妙にドキドキするのかな。
大人っぽくなった湊人を見慣れないせいだと考える。
「どうかしたのか?」
急に黙り込んだ湊人が気になって憐が問いかけると、湊人は口を開いた。
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