どうしても、また君に歌を届けたかった。

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 ***  約束していた食事の日が訪れた。  湊人お勧めの座敷になった個室のある居酒屋だ。中に入って荷物を置く。セルフオーダーシステムの店だった。 「憐が好きなの選んでいいよ」  湊人にタブレットを渡される。 「湊人は?」 「いいから、いいから〜」  相変わらず変な奴だと思いながら、憐はメニュー一覧と睨めっこした。  操作していると視線を感じて顔を上げる。 「湊人? やっぱり何か食べたいものがあったか?」 「オレは憐が食べたい物を一緒に食べたいな。憐が好きな物を注文して?」 「そう来たか……」  ——恥ずかしい奴。  顔が熱くなった。  タブレットを操作して単品でいくつか注文していく。 「憐、飲まないの?」 「アルコールは苦手なんだ」 「オレも下戸〜。一緒だね」  湊人はザルのイメージしかなかったから、些か驚いた。  一緒にウーロン茶を頼んでタブレットを元の位置に戻す。 「そういえば憐っていつから動画やってたの? アプリだと一年くらい前からだったけど、もしかして他にもやってたりする?」 「いや、あのアプリだけだ。それまで動画自体も見た事なかったくらいだったし」 「そうなんだ。昔っから歌うの好きだったでしょ? 歌の動画多いし手慣れてるのかと思ってた」  湊人からの問いかけに気まずさを隠しきれず、憐は小さく口を開いた。 「あれは……母さん達やお前が褒めてくれるのが嬉しくて……歌ってただけだ」  照れ臭くてそっぽ向く。すると、湊人は驚いたように目を丸くした後、嬉しそうに目を細めた。 「オレも理由に入ってるのがすっげえ嬉しい」 「ちょっとだけだ」  即答で一蹴する。 「ねー! そこはしっかりオレも入れといてよ!」  喜んだり拗ねたりと、感情や表情がコロコロ変わる湊人を見ていると面白かった。  肩を震わせて笑う。  ——嘘だよ。湊人が歌ってって言ってくれたから俺は今も歌ってる。  言葉にはせずに、心の中で告げる。  あの一言にどれだけ救われたか分からない。  どんな暗闇の中でも、足元を照らしたのは湊人の言葉だった。  また歌いたいと思えるくらいの希望をくれた。  湊人との優しい記憶があったから、こうして今も呼吸が出来ている。  湊人へ向けるこの感情を、恋と呼んでいいのかはまだ分からない。  けど、憐にとって湊人の存在は無くてはならない程に、とても大きくて大切過ぎるくらいだった。 「でもさ、正直な話、憐が昔と同じように接してくれて安心した。十一年経ってるし、今更馴れ馴れしくするなって言われたらどうしようかってちょっと思ってたから。こんなに美人に育ってるし。告白したら無視されるようになったけど……」  座る態勢を崩して、後ろに両手をやって上体を支えた湊人に視線を向ける。 「あれは本当に悪かった。俺は湊人だけは絶対嫌いにならない。それだけは信じて欲しい」 「憐て、そういうとこあるよね」  両手で顔を覆って、どこか悶えるような仕草をしている湊人に視線を這わせた。 「湊人だって、何も気にしてないような感じだっただろ? そんな素振りも全然なかった」 「そりゃこれでも一応プロのモデルだからね。顔や態度に出さない芝居は得意だよ」  はにかんで肩を竦めた湊人が、小さく笑いをこぼした。 「お待たせいたしました」  ノックの後、店員の言葉と共に運ばれて来た料理を受け取る。 「人気モデル様だもんな」 「何かすっごく嫌味に聞こえるんだけど……」 「気が付いたのか」 「憐っ⁉︎」 「冗談だよ、ごめん」  やはり湊人は話しやすい。  揶揄い混じりに話が弾んでどんどん広がっていき、笑い声が絶えない。どうしたらそんなに喋れるのか不思議に思えてくる。  ふとした瞬間に甘さを含んだ微笑みを浮かべられるから、そこだけはまだ慣れなくて憐はその都度ドキリとさせられた。 「憐、彼女や彼氏はいないの?」  唐突に話を変えられて唖然とした。  しかも今更な話題だ。 「今それを聞くのか。ていうか知らずに俺にキスするなよ。もし彼女か彼氏がいたらどうする気だったんだ」 「あ! 男が選択肢にあるのは気にならないんだ! 良かった!」  湊人の言葉に憐の表情が固くなった。  ——しまった。ついのせられた……。  今までの生活があったから、恐らく感覚が麻痺している。唐突に喉が渇いて水が入ったグラスに手を伸ばす。 「別に……。今のは湊人の言葉をそのまま口にしただけだ。興味無い」 「そうなの? オレにだけは興味持ってくれてもいいんだよ?」  ニンマリと笑みを浮かべた湊人に見つめられる。 「男とか、湊人がどうとかじゃなくて、誰かと恋人になる事に興味がないんだ」  動揺してしまったのを悟られたくなくて、自然な動作になるように視線を逸らして箸を手にすると、湊人はどこか嬉しそうにして笑みを浮かべた。 「まあ、居ても奪う気満々だったけどね。片想いして十一年だよ? 憐には悪いけど、今更誰かに憐をあげる気も諦める気もないよ。はい、ご新規さんは引っ込んでー」 「何だそれ」  物騒な商売人ぽい台詞を交えた湊人がおかしくて、フハッと声をあげて笑う。 「でも憐はオレと付き合うのちゃんと意識してね?」 「自己中かよ」  湊人といるといつも調子を狂わされる。  昔からそうだった。  普段無口で喋らない憐も湊人と居る時だけは別で、年相応に笑いもするし喋った。  湊人は学生時代から、他の人にも同じ態度だったのが憐としては少し悔しかったが、自分が一番湊人と仲がいいと自負していたからか、嫉妬するほどでもなかった。  湊人の周りはいつも賑やかだ。  今でもそうなんだろうなというのは湊人を見ていれば分かるし、現在は華やかさも加わっていそうで尻込みしてしまう。  湊人のとなりという立ち位置は、自分にはもう敷居が高くて心が騒めく。それが少し寂しく感じた。 「ねぇ憐ってば、本当に恋人はいない?」  湊人からの問いかけに、一度視線を落としてから口を開く。 「湊人しつこい。いないよ。友人どころか話す知人すらいない」 「ふふ、ちょっと嬉しい」 「人の不幸を笑うなよ」 「あはは、さっきの仕返しだよー」  ムッとした表情を作ると、湊人が更に表情を崩す。 「ごめんごめん。じゃあ、一番の友人ポジもオレにちょうだい?」  湊人からの問いかけに首を傾げる。 「元々そこには湊人しかいないけど?」  即答すると何拍かの間が空いた。 「……憐て、マジで天然タラシだよね」  人聞きの悪い事を言わないで欲しい。  近距離で睨みつけると、湊人はやたらキラキラした顔で微笑んだ。  湊人は終始嬉しそうにしていて、食事をしているよりもこちらを見ている割合の方が多かった。  ——その無駄に良い顔をどうにかしろ。  心の中で少しだけ悪態をついた。  湊人に見られるのに少し耐性が出来てきた頃に、また自分の心の中に影ができて来るのが分かって、憐はボーっとしながらテーブルの一点だけを見つめる。  二階堂家に引き取られてから初めの二週間くらいは義兄も今の湊人みたいに優しかった。  その事を思い出してしまった。  義兄と湊人は違う。  何度も自分に言い聞かせても、昔の事をどうしても思い出して重ねてしまう。 「ぼんやりしてどうしたの? 疲れた?」  目の前で湊人に手を振られて我にかえる。 「悪い。何でもない。ずっと一人でいたから、自分の世界に飛ぶのが癖になっているだけだ」 「だからなのかな。憐てば独特な雰囲気あるもんね。妙に色っぽいて言うか」 「え……」  心臓が嫌な音を立てた。 「変な事……、言うのはやめてくれ」  乾いた笑い声が出る。  逸れてしまった話題の先が、憐にとって嫌な方向へ向いてしまう。  このままだと耳に入れたくないフレーズが飛び出して来そうで、何とか話題を変えようと口を開こうとした瞬間だった。 「オレ以外、誘惑しちゃダメだよ?」  湊人が先に言葉を発して、憐の体が硬直して一気に血の気が引いていく。 『誘うお前が悪い』  全身に悪寒が走った。  湊人はそんなつもりで言った訳じゃないのは分かっている。  だが、忌まわしい記憶を呼び覚ますには十分な一言で、憐は耐えきれずに立ち上がった。  ——駄目だ。早く帰らないと、多分発作が出る。湊人には知られたくない!  他に何かを考えている余裕がなかった。  記憶の濁流に呑まれそうになっている意識を繋ぎ止めるように一度目を瞑る。眩暈がした。
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