どうしても、また君に歌を届けたかった。

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「憐?」  訝しげな湊人の声かけに答えようと口を開く。 「悪い。気分が……っ、悪くなってきたから……帰る。また連絡する……ごめん」  湊人の顔は見れなかった。  震えてくる手を握りしめて、荷物を取るなり出入り口に向かう。  呼吸が浅く、早くなっていく。胸が苦しくて呼応するかのように、体も怠くなってきて、また目眩がした。 「待って憐! オレ何かしたんなら謝るから、お願い、帰らないで」  再度掛けられた声に胸が痛んだ。  ——違うんだ、湊人。お前は悪くない。  そう思うのに、上手く言葉が口をついて出ない。 「ごめ……っ、違……」  いち早く行動した湊人に腕を掴まれた。 「っ!」  心音がどんどん増して行き、過去の記憶がフラッシュバックする。 『どれだけ男をたらし込んだ?』  男に抑え込まれた腕はどれだけ力を込めてもピクリともしなかった。 「湊……人、離せ」  喉が引き攣っていた。 「嫌だ。だって今離したら憐もう二度とオレと会ってくれない気がする」 「や……っ、嫌だ。離し、て……」 『は、ガキのくせしてエロい体してんな?』  手先が冷たくなって、憐の全身にまた震えが走った。 「ひ……っ」 「憐?」  悲鳴が口をついて出た。  身を屈めた湊人に顔を覗き込まれる。  ——違う。ここに居るのは湊人であって、義兄じゃない。 「嫌だ、こうや……さんッ、やだ、嫌だ。お願……嫌だ。離してくれ」  そう思った時にはもう遅くて、口走っていた。  体は震えたまま止まらなくなって目を閉じる。喉に手を当てて、しにくい息を必死に吐き出した。  腕の圧迫が無くなっているのには気が付いたけれど、湊人の顔をまともに見れなかった。  ——見られた。一番バレたくなかった人に見られた。  意識が混濁している。ブラックアウトしかけているのかもしれない。所々で意識が黒く塗り替えられていた。 「憐! ちょっと仰向けにしたいから触れるね。ごめん。少しだけ我慢してて」  倒れ込みそうになったのを、首を支えられて仰向けに横にされる。 「ごめんね憐。大丈夫だよ。何もしないから落ち着いて。苦しいでしょ? 一緒にゆっくり息しよ。ね、オレが誰だか分かる?」  テンポを落とした優しい声音が降ってきて、閉じかけていた目を開ける。 「み……、な……と?」  短い呼吸の合間で声が掠れていたけれど、何とか言葉にする事は出来た。 「うん、そうだよ。先ずは一緒に呼吸しよ?」  コクリと頷くと、湊人は微笑んで見せた。  息を吐けるとこまで吐き出してから吸い込む。吸い込んだ息を十秒くらい時間をかけてゆっくり吐き出す。それを何度か繰り返していると段々と呼吸が落ち着いてきた。 「上手だね憐。オレの事怖い? もっと離れた方がいい?」 「ありがとう……湊人。このままいても……大丈夫だ。押さえつけられなかったら……酷い発作は出ない。迷惑かけて、ごめん」  本当はこんな弱い自分の姿など湊人には見られたくなかった。  理由を話すのは憚られ、もし問いかけられたとしても答えられそうにない。 「憐は悪くないでしょ、謝らないで。謝らなきゃいけないのはオレの方だから。怖かったよねごめんね。何もしないよ。誓うから、ただ憐の側にいていい?」  コクリとまた頷いた。 「湊人なら……いい。湊人は、俺にとって特別……なんだ」  特別なたった一人の友人であり、優しくて温かくて安心できる存在。  湊人の前でだけは本来の自分の姿に戻れるし、普通の日々を過ごせた。 「頭は触れても大丈夫?」 「ん。平気、だ」  体温の高い節ばった男らしい手が頭に乗せられる。髪をすいてくる手付きが心地よくて目を細めた。 「もう少し横になってなよ。もっと落ち着いてここ出たらさ、少し気晴らししに行かない? その後カラオケ行きたい。憐の歌、直接聞かせてよ」  湊人は発作の事については触れずに笑った。柔らかな笑みが憐の心を優しく包み込む。 「憐には好きな歌を歌っていて欲しい」 「うん……分かった」  たったそれだけの言葉が、どんな言葉よりも身に染みた。  三十分くらい経てば、発作はもうすっかり治っていた。  体を起こして、水の入ったグラスを口元に傾ける。  目が合うと、いつもの温和な表情を向けられる。 「もう大丈夫なの?」 「平気だ。あの……湊人……」 「ねねね、憐! せっかくだしさ、動画も撮っちゃう?」 「いや、いい。良く見かける背景とかだと、場所とか特定されそうで……嫌なんだ」 「オレ、そういうの消す方法知ってるよ。憐のスマホで出来なかったら、オレのスマホで編集したげる。んで背景は、いつもの工場内の画像に変えちゃおうよ」  初めて知った事柄に目を見張る。 「え、そんな事も出来るのか? 湊人凄いな。俺にも教えて欲しい」 「いいよ。んじゃ決まりね」  とりあえずはもう少し顔色が戻ってきちんと腹ごしらえしよ。と、頭を撫でられた。  温かくて優しい手つきが気持ちいい。  それっきり湊人は何も聞いて来なかった。普段と変わらない態度で、何処に行こうかと話をふられる。  間違えてしまった事に、申し訳ない気持ちでいっぱいになってきて胸がつまった。  その後、二人で色んなスポーツを楽しめるアミューズメント施設に行って、ボーリングやビリヤードをのんびりと回った。  暗く照明が落とされているのもあって、人混みに紛れやすい。湊人はまた帽子と眼鏡で軽く変装していた。 「俺、初めてビリヤードした。湊人は良く来るのか? 上手いな」  湊人の打つ白球は良い感じでボールを弾いてコーナーポケット手前で止まるのに、自分の放つボールは他のボールには当たらないか落ちてばかりだ。  憐は大きく瞬きした。  ——何が違うんだ? 「新田(あらた)さんて名前のマネージャーがいるんだけど、たまに来るから教えて貰ったの。上手いんだよ、うちの敏腕マネージャー。なんでも出来るし顔も広いの」 「へえ、仲良いんだな」 「あ、ヤキモチ? 嫉妬してくれる?」  嬉しそうにニッコリ微笑まれる。 「ううん。しない」 「憐に嫉妬されたいのに!」 「くくく、イイ男が台無しだな」  笑うと、湊人にジッと顔を覗き込まれる。 「あ、オレがイイ男だってのは認めてくれてるんだ⁉︎」  湊人の機嫌が三割り増しになった。 「それは、まあ。だからこそ人気モデルなんだろ?」 「違う。そうじゃないよ。憐にとってどうかって事!」 「俺? 湊人は昔からカッコいいと思っていたよ」  瞬間、湊人がうずくまって呪文のように何かを言葉にしていた。 「湊人、そろそろ時間だろ? 行こう?」 「…………うん」  挙動不審気味に視線を彷徨わせている湊人と、同施設内にあるカラオケに向かう。  部屋に入り、テーブルを挟んで対面になるように座ると曲を選んだ。 「せっかくだからさ、一緒に歌わない?」  湊人からの提案に顔を上げる。言われてみて初めて気がついた。  いつも一人で動画撮影しているのもあって、誰かと歌うという経験がない事に。
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