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二階の大広間は畳が荒れ果て、隅の方で座布団が何枚か朽ちている。
「宴会場って感じだね」
土足で畳を歩くのは気が引けるが、かと言って脱ぐ気にもならない。
藍原が天井を見上げた。
「なかなかすごいよ、天井」
そう言われてスマホを天井に向けた。
あちこち派手に変色している。
「雨漏りか?」
「いや、あそことか、たぶん顔だよ」
藍原が指差した場所に目を凝らす。
「…顔って言われたらそうかも知れないけど」
「あとで動画確認したら、驚くものが写ってるよ」
藍原は自信たっぷりに笑っている。
テツヤにはただ、雨漏りの跡でどす黒くところどころが剥がれ落ちた天井にしか見えない。
丸が三つあれば顔に見える、と誰かが言っていた。
その程度だと思っている。
メキィ、と不穏な音がして、テツヤはスマホを天井から藍原に向けた。
「藍原、また床抜けたのか?」
「違うよ」
神妙な声音。
宴会場の奥にあるステージをまっすぐ見つめている。
カラオケや余興をするための場所なのだろうが、テツヤにとってステージは、かつて元相方と立っていた場所。
そういえば宴会でネタをやらされたことがあったなぁと嫌なことを思い出したりもした。
「藍原?」
「うん」
藍原はしばらくステージのほうを見つめていたかと思うと、突然、お世辞にも長いとは言えない両手両足を大きく広げた。
モモンガが飛び立つ時の姿に酷似している。
「ど、どうした?」
「威嚇してる」
藍原はその状態のまま、ステージのほうをキッと睨む。
クマにあったときは身体を大きく見せるという対処法があった気がするが、それは今使う技なのだろうか。
「真剣なところ悪いけどめちゃくちゃ面白いよ」
「めちゃくちゃ真剣だよ」
「いやこれ何か映ってる?映ってたとして心霊スポットの映像として公開できる?」
何が映っているのかもわからないし、ただただ、大柄な男が大の字で突っ立っている映像。
藍原からステージのほうにスマホを動かして、また藍原へ戻った時。
ゆっっっくりと後ろに傾いて行った藍原が、どすん、と重たい音を立てて尻餅をついた。
ランタンが床に転がって、藍原の影をボロボロの壁に映す。
テツヤ笑いを堪えながら、こういうのはちょっと心霊現象ぽいぞと思って、一応その影を動画に収めると、また藍原にスマホを向けた。
藍原は立ち上がってランタンを拾い上げる。
「勝った」
「負けてるように見えたけど」
「どっか行ったから僕が勝ったんだよ、転んだのは普通にドジした」
さっきから床が割れたり机が倒れて来たりしているのもドジの範疇だろうか。
藍原が尻の汚れをパタパタと払ったが、明らかに色が変わってしまっている。
「藍原、たぶんそのズボンもうダメだぞ」
「動画撮るならと思って、わりと新しい服着て来たんだけど」
あーあ、と嘆きながら藍原はロビー穴に落ちたときに汚した膝下と、今汚した尻のあたりをひっぱったり払ったりしたが、この暗闇の中では何も変わったように見えなかった。
「さっきから走ったり転けたりしてるからだろ」
「普段そんなことないんだけど、やっぱりこういう場所は調子が狂うね」
「そういうもんか」
「鈍いなぁほんと、本当に何にも見えない?」
「なーんにも」
大広間から廊下に出る。
「奥にトイレあるね。定番だけどみてくる?」
藍原が指差した廊下の奥は、いかにも何か出て来そうなロケーションだ。
「うーん、行かなくて良いんじゃないか?」
「なんで?」
テツヤの答えに、藍原が不思議そうに眉を寄せる。
「俺だったら汚いトイレの映像なんか見たくないし?それに、仮に、俺が幽霊の側でもわざわざトイレに棲みつかない。こんなでかいホテルでわざわざトイレを選ばない。絶対に、スイートルームに棲みつく」
「幽霊側の気持ちになる人珍しいね」
そう言いながら、トイレと逆方向にある階段をまた登り始めた。
「さっきの地図、スイートルームあるか見た?」
「見てないけどあるとしたら上の方だと思う」
「よし行くか、スイートルーム」
大広間で撮影した動画を保存して、また録画ボタンを押し、階段を上りだす。
目的地が定まればやる気にもなる。
廃墟とはいえ、スイートルームに入るのは初めてだ。
「途中の階の部屋はみる?」
「そんなの全部開けて見てたら朝になっちまうだろ、さっきみたいにいるところ教えてくれ」
「そんなの、ドア開けないとわからないよ」
「三階より四階の方がいそうだし、四階行こう。どんどん開けて、いたところを撮る」
「わかった」
階段を上り続けて四階に着くと、藍原は手前から順に部屋のドアを開けようとドアノブに手をかけた。
動きがぴたりと止まる。
「どうした?」
テツヤが声をかけると、藍原はゆっくりと手首を捻った。
がちん、と金属音が鳴る。
「鍵かかってる」
「まさかのオートロック!?」
全部屋鍵がかかっている可能性に、テツヤは愕然とした。
「いや、この古さの建物でオートロックはないと思う。理由があって鍵がかかってるだけ」
「理由って?」
「それはわからないよ、普通に防犯かもしれないし」
「まぁ…幽霊じゃないやつが住み着く可能性もあるか、あるか?こんな山奥で」
藍原はすぐに隣の部屋のドアノブに手をかける。
がちん、と音が響く。
その隣のドア、そのまた隣、とどんどん藍原が遠のいていく。
「藍原、諦めて上行こう」
そう声をかけた時。
奥から二番目の部屋のドアノブを回した藍原が、勢い良く開いたドアの向こうに消えた。
「藍原!?」
驚いて駆け寄る。
「びっくりした、開いちゃった」
「いやこっちがびっくりしたよ、消えたと思った」
内向きのドアが勢いよく開いてバランスを崩したせいで姿が見えなくなっただけ、とはいえ、急に消えたように思えて肝が冷えた。
室内は手前に畳があって、奥にベッドが二つ並んでいる。
ボロボロのカーテンの向こうに、湖を望むバルコニーがあるのだろう。
「なんでここだけ開いたんだろう」
「何もいない?」
「いないねぇ」
部屋を一回り撮影してみたが、廃れたホテルの一室でしかない。
「カーテン開けてみる?」
「オッケー、撮るから開けて」
テツヤはバルコニーのガラス全体がスマホ画面に映るよう、部屋の入り口付近に立った。
「じゃあ、開けるよ。さん、にい、いち」
思わせぶりなことを言って、藍原はカーテンをひいた。
「うわぁぁっ」
「えっ何!?どうした!?」
藍原が悲鳴をあげて後ずさった。
バルコニーのガラスにスマホを向ける。
外は漆黒の夜。
汚いガラスにランタンとスマホの光が反射している。
「こ、これは迫力があるね」
「えっ見えてるってこと?」
「うん」
「きったないガラスでしかないけど」
「いくらなんでも、林が鈍感すぎるんじゃない?あそこに顔、あっちに手型」
藍原が指差す方を撮ってみるが、反射する光しか認識できなかった。
もしかしたら、汚れが手型に見えているのかもしれない。
「俺としては藍原の反応が面白いだけだな。せめてしっかり撮れてて欲しいなぁ」
「面白がらないでくれよ、見えるのは慣れてるけどびっくりはするんだから」
藍原はカーテンを元通りに直すと、ああびっくりしたと心臓のあたりを手で押さえた。
テツヤはそんな藍原を横目に、動画を一旦保存する。
録画を再開したスマホを藍原に向けながら、テツヤは、このまま藍原のリアクションをメインに撮った方が面白いのではと思い始めていた。
スイートルームを目指して階段を上る。
七階が大浴場だから六階にあるだろうと見当を付け、五階を飛ばした。
「そういえば藍原って、いつから見えるようになったんだ?」
二段先の階段を上る藍原に問う。
「気がついたら、って感じかな。子どもの頃から見えてたけど、それが人間なのか違うのかわかるようになったのは中学くらい」
息を切らしながら藍原が答えた。
「けっこう遅いな?」
「みんな見えてると思ってたんだよね、当たり前すぎて」
そんなにはっきり見える藍原でも驚いたりするのだから、よほどの何かがここにいるのだろう。
「なんで俺には見えないんだろうな」
「林って、そんなに見えなくてここに来てからどういう感情なの?」
「藍原が廃墟で走ったり転んだり大声出してて面白い」
「他人事だと思って」
藍原は不服そうだが、かといって帰るとも言い出さない藍原も藍原だ。
テツヤとしては、ずっと動画を回しているのに、自分だけは何も見えていないのだから、藍原が驚くリアクションしか感想がない。
何かが写っていることを期待するよりも『霊感のある男と心霊スポットに行ってみた』という動画に仕上げるほうがいいのかもしれないと思い始めた。
そうすると、多少大袈裟に反応してもらえた方が、撮影している方も楽しいが、それを伝えてしまったらヤラセになりかねないのが難しい。
六階に到着すると、廊下の両側にドアが並んでいた先ほどまでとは違い、エレベーターのすぐそばにドアがある。
「ここがスイートルームみたいだね。ドアが開くといいけど」
「あ、そうか。鍵かかってるかもしれないのか」
藍原がドアノブに手をかけて、テツヤがそれを後方から撮る。
「じゃあ、開けるよ」
開いてくれ、というテツヤの願いが通じたのか、ドアノブが回った。
普通なら、一番鍵をかける部屋だろうに。
玄関を入るとまず真っ先に目に入る壁一面の窓ガラス。
カーテンをつけられないほどの大きさで、日中ならここから湖が一望できたのだろう。
今はただ真っ暗だ。
さっきは窓を見て大騒ぎしていた藍原も反応がない。
テーブルとソファーが部屋の中央にどんと置いてあるが、テーブルクロスは劣化して蜘蛛の巣のようになっているし、ソファーの皮は破れていた。
「どっちから行く?」
「どっちって?」
藍原の問いかけの意味がわからない。
何せスイートルームなんて入ったのが初めてなのだから。
「ここがリビングで、こっちが寝室で、たぶん奥は和室」
「部屋の中に部屋があるってことか?」
「スイートルームってそういう意味だよ、キッチンとか寝室が一通りある部屋」
藍原はそう言うと、自分でどちらに行くか決めたのか、勝手に歩き出した。
「広い部屋だね、泊まるとしたらいくらくらい取られるんだろう」
「わからん。けど、一生泊まることないだろうな」
廃墟だとしても、心霊スポットだとしても、スイートルームに入るいうのはテツヤにとってなかなかに得難い経験だ。
「ところで藍原、この部屋には何かいそうなのか?」
「今のところ見えないなぁ」
「俺だったら絶対あのソファー陣取るけどな」
「確かに。疲れたし座る?」
言うなり、藍原はソファーに近寄り腰掛けようとした。
だいぶ汚れてないかとか、これ壊したら動画公開して大丈夫だろうかとかが一瞬で頭をよぎった時。
藍原がソファーの手前で尻もちをついたと思ったら座面に後頭部をぶつけ、はずみで両足をテーブルにぶつけた。
ドスンゴンバン、と三種類の音がリズミカルに響いた。
「いっ…たぁ、何で」
「だ、いじょうぶか?」
テツヤは笑いを堪えて声をかける。
今度は藍原の背中が汚れてしまっていた。
「疲れすぎだろ、階段降りれるのか?」
「座るなって怒られたんだよ絶対」
「前の席のイスひっぱるお化け?小学生かよ」
「本当だって、このソファーが動いたんだって」
そう簡単に動くような代物には見えない。
古びているが充分立派で、重そうなソファーだ。
「もう座るのは諦めたよ、早く見て帰ろう」
藍原は拗ねたように言うと奥の和室に向かって行く。
豪勢なリビングを抜けた奥にある和室。
襖を開けると八畳間に押し入れがある。
押し入れは半開きで、布団が詰まっているのがみえた。
窓がなく、大広間と違う薄気味悪さがある。
藍原のランタンが壁から天井まで照らす。
「なんか、嫌な感じがするね」
「見えてはない?」
「うん。見えないけど、いるんじゃないかな」
藍原に見えないものが映るのだろうか。
テツヤは一回り、壁から天井まで部屋を一回り撮影した。
「撮れた?じゃあ最後は向こうの寝室かな」
そう言って部屋を出ようとした藍原の背中にスマホを向ける。
バン、と軽い衝突音。
半開きの襖に激突した藍原が額を抑えていた。
「おいおい、さっきからどうした」
テツヤは笑いを超えて呆れた声をかける。
「変だよ、だって僕さっき襖全部開けて、締めてないもん」
「気のせいだろ」
「あとで動画確認するからね」
勝手に襖が閉じたなら、絶対に撮れていて欲しい。
テツヤは半開きの襖をしっかり動画に収めると、最後の一部屋に向かった。
寝室はベッドが二つ並んでもあまりある広さ。
不思議にも、和室ほどの不気味さはない。
大きな半円窓があり、そこから月明かりが差し込んでいる。
そこだけを見ると海外のホテルのようだ。
それに、明るいというだけで何となく怖さが減る気がした。
「なんでこの部屋だけ月が見えるんだろう」
藍原が窓辺から外を眺めて呟いた。
「窓の方角だろ?」
「それにしてもこんなに明るかった?」
「この部屋だけ月が見えます、なんて怪談にしてはしょうもないだろ」
藍原の横顔に、窓枠の形をした光が当たっている。
「しょうもない、かぁ。林だったら、どんなのがいいと思う?」
「え?この部屋の怪談?」
白い窓枠、埃は被っているが大きなベッド、月明かり。
ここで何が起きたら怖いかと問われたら。
「まぁ、ベタだけど、女の子のお化けがいたら怖いんじゃないか?」
「そりゃあ海外のホラーならそうだけど、純日本人だよ?」
「座敷童子とかいるんだから、日本人の女の子だって怪談になるだろ。黒髪のおかっぱで、着物とか着てその窓辺にいたら画になりそうだし」
実際そこにいるのはサラリーマンの見た目をしているのにサラリーマンではない大男だが。
「じゃあ、さっきのリビングだったら?」
「藍原が転んだところか?うーん、どんなだっけ」
リビングに戻ると、大きな窓の向こうはやっぱり暗く、何も見えない。
「こんなでっかい窓なのに何も見えないのがなぁ。こう、窓の向こうに人がいる、みたいなのがあればいいんじゃないか?絶対無理な高さだし。今も何にも見えないんだろ」
「見えないね、この部屋にはいる感じするけど見えない」
「恥ずかしがり屋?動画だけでも映ってくれませんかね」
テツヤは冗談めかして、見えない存在に話しかけるように言った。
ミシリ、と返事のように家鳴りがした。
「うわ、今のって」
藍原が壁や天井を見回す。
「家鳴りだろ、古い建物なんだから」
「こんな大きくて立派なのに?」
「丈夫かどうかはわからないだろ、雨漏りもしてるし床は抜けてたし」
テツヤは撮影しながら、リビング全体を見まわした。
「綺麗だったら絶対住みたいけどな、ここ。よく鍵かかってなかったよ」
「ここまで上ってくるのが珍しいんじゃないかな、たいていが大広間で嫌になっちゃうよあんなの」
「まあ、俺は何にも見えなかったから。藍原がすごいよ」
「ありがとう、戦った甲斐があるよ」
あの珍妙な威嚇を戦いと捉えるくらいの何かを見たのだろうか。
テツヤは手元のスマホにむかって、どうか撮れていてくれと念を込めながら、撮影した動画を保存した。
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