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スイートルームから出ると、藍原は階段を上り出す。
「最後は大浴場。いよいよクライマックスだね」
「よし、行くか」
気合を入れて疲れた足を進める。
充電が心許なくなってきたが、あと少しだ。
廃墟とはいえ、動画を公開することを考えると女湯はやめたほうがいいだろうか。
「廃墟としても女湯入るのはよくないか?いや、お化けって風呂入るか?藍原はどう思う?営業してる風呂なら覗きのお化けいそうな気はするけど」
「ええ…僕も女湯に入ったことないから何とも言えないかな…」
それはそうだ。
とりあえず、男湯の様子を見てから決めることにする。
脱衣所の引き戸は壊れて外れていた。
藍原がまたぶつかるかもしれないから、入り口をしっかり撮る。
木製のロッカーはほとんど原型を留めていない。
変色したタオルが散乱している。
大浴場に入ると、剥がれ落ちたタイルを踏むたびにパキパキカラカラと音が響く。
「そもそも大浴場にお化け出るってあんまり聞いたことないけど、いそう?」
「まだわからないけど、湿気のせいかな?劣化がすごいよ」
藍原は露天風呂に続くガラス戸を開けようとしたが、歪んでいるせいか開かない。
「壊したらまずいから、やめておくね」
「そのほうがいいな。外で床が抜けてたら本当に危ないし。でもここ、日中で天気良かったらさぞ景色が良いだろうな」
テツヤがスマホを向けると、真っ暗だった窓の外が、月明かりで薄く照らされた。
風が吹いて、木々がざわめき、ガラスが震える。
湖の水面が見えて、揺れる光。
藍原が湖に目を向けると、わぁ、と小さく声を上げた。
「…いるね」
「えっ、いる?まじで?」
「え、何も調べてない?」
「何が?」
「心中したカップルの霊が湖面に出るって噂」
「へぇ」
心霊スポットの廃墟ということしか知らなかった。
そんな噂があったのか。
せっかくなら、そのカップルの霊が写って欲しい。
テツヤはスマホの画面越しに湖を見た。
うっすらと写っている気がしたが、また月が隠れて真っ暗になった。
どんな仕上がりになっているかを早く確認したい。
何が撮れているのか楽しみだ。
藍原は暗くなった窓の向こうをじっと見つめている。
「まだ見えるのか?」
「見えなくなった。暗すぎるとダメなのかな」
足元のタイルを踏みつつ出入り口に向かう。
「藍原、ここでこけたら尻がズタズタになるから気をつけろ」
「転びたくて転んでるわけじゃないよ」
女湯も一応入ってみようと思ったが、こちらは脱衣場に鍵がかかっていた。
潔く諦める。
念のため、ホテルを出るまでは撮影を続けることにして階段を下りはじめた。
どこで何が映るかわからない。
ぱたん、ぱたん、ぱたん。
気の抜けた足音が暗い階段の下まで響く。
手すりを使わずに階段を降りるのはなかなかつらい。
「あ、そういえばさ」
四階に下りてきたところで、藍原がまた廊下のほうに歩き出した。
「さっきさ、一つだけ鍵が開いてた部屋あったでしょ?」
「ああ、奥の部屋ね」
「林だったら、あそこに何があったら怖いと思う?」
「えー?窓になんかあったとこだっけ」
「そう」
暗い廊下、ランタンの灯りに浮かび上がる、整然と並んだドアの奥から二番目。
なぜかそこだけが開くドア。
「うーん、窓はカーテン開けるまでわからないし、カーテン触るのも度胸いるしな」
気がつけば、またあの部屋の前まで来ていた。
鍵は開いている。
藍原がドアノブを回す。
ぎぃ、と錆びついた音。
さっきと何ら変わらない、ベッドが二つ並んだ部屋。
「やっぱりカーテン開けないとわからないんじゃなぁ」
「林が見えなさすぎるだけかもしれないよ」
「四階の、奥から二番目の部屋…あー、トイレの花子さんのパクリみたいなのあれば面白いんじゃないか?」
「トイレじゃないけど、ホテルのナントカさんって感じ?」
「そう、ホテルのミナコさんとか、ケイコさんとか適当な名前で。何号室だっけここ?何号室のなんとかさんでもいいかもな」
「で、何するの」
藍原に詳しい設定を求められて、テツヤは困ってしまった。
怪談のバリエーションなんてそんなに知らないのだ。
「何って、ベッドにただ座ってるとかで充分怖いだろ。あれ、花子さんってオチどんな話?」
「確かに、トイレの花子さんって存在は知ってるけど、そこまで気にしたことないね」
「えー?トイレに連れ込まれるとかだっけ?いや怖いなそれ、すげぇ嫌だな」
よくみると、玄関を入ってすぐに、トイレとシャワー室だと思われるドアがある。
さっきは窓に気を取られて気づかなかった。
「シャワーの音がしてきたらだいぶ怖そうだよな、水道止まってるだろうけど」
「急な音は嫌だよね」
「自動洗浄とか、わかっててもビビるしな」
「開けてみる?」
「度胸あるな〜お前。幽霊とかじゃないもの撮れたらどうすんの」
藍原が、トイレのドアノブに手をかけた、その瞬間。
バチィッ!
「いってえ!」
悲鳴をあげて手を引いた。
飛び退いた拍子に背中を壁にぶつける。
「うわ何どうした!?大丈夫か!?」
テツヤは心配する言葉をかけたが、内心、いいリアクションが撮れたと嬉しくなった。
「入るな、ってことかな」
意味深に手をさすりながら言う藍原だが、テツヤがドアノブを回すとすんなり開いた。
「静電気じゃないか?」
「そうかなあ」
藍原は納得いかない様子だ。
カビ臭いユニットバス。
あまり綺麗な絵面でもないからすぐに閉めた。
「ここからバァーッと襲ってきたらそりゃ怖いけど、それも見えてこそだしな」
「うーん、確かに、見えてない人が相手じゃ何しても意味ないね」
奥から二番目の部屋を出て、また階段を下りる。
「さっきの話だけどさ、林は大広間で何も見えなかったから平気で上に上がってきたけど、何があったら帰ってた?」
「ええ?何にも見えなかったし、帰る気もなかったからな…何だろうな、ちょっともう一回見に行っていいか?」
二階の大広間にも寄り道する。
さっきと変わらない、荒れ果てた畳とステージ。
「うーん、急にステージのライトが付く、とか?いやでもな、はいどうもーって幽霊が出て来るはずないか…座布団がちゃんと並んでたら…いや、宴会っぽいか。帰りたくなるほど怖くないな…うーん」
テツヤは大広間を見回して考える。
「俺みたいな全然見えないやつは何しても帰らない気がするけどな。でも俺、天井のシミは見えるな。それが明らかに異様な模様だったらビビるかも。それかもう、シミが真っ赤とか」
「真っ赤」
「天井から真っ赤な血が落ちて来てるとか」
「幽霊って血が出るものかな」
「あー…」
藍原に言われて、それ以上のアイディアが出てこない。
「見えない人間がどうしたら怖いかって、やっぱ床が抜けるとか壁が崩れるとか、怪我しそうなことが怖いな」
「単純に命に関わることだもんね。なんかいそう、っていう曖昧な怖さは林みたいなタイプは平気そうだし」
「そういう情緒みたいなのは全然わからないんだよ俺」
子供の頃に見た、海外のホラー映画は怖かったと記憶している。
チェーンソーを持った殺人鬼や、子供の人形が襲いかかってくるのは怖かった。
「なんかさ、しっかり目に見えるものが凶器持って近寄って来るのが怖いんだよな。ここだったら何だろうな?」
「それは誰でも怖いよ。しっかり目に見えるものかぁ、さっき下で見た椅子とかテーブルくらいかなぁ…」
「椅子が勝手に動くのは怖いかもしれないけど、そもそも椅子が何か持ってるの変だろ。どうやって持つんだよ」
テツヤは大広間をうろうろと歩き回りながら、ここに何があれば怖いかを考える。
自分には目に見えないものを怖いと感じる情感はない。
じゃあ、そういう感性が豊かな人に訴えるにはどうしたらいいのか。
暗い大広間。
天井には無数のシミ。
それだけで怖いと感じる人はいるだろう。
「わかんねえな、目に見えないものが怖いなんて」
テツヤは大広間を出ようとして、ステージを一瞬振り返る。
ふっ、と目の端に何かが見えた。
「うおおぉっ!?」
悲鳴をあげて腰を抜かしたテツヤの手から、スマホが転がり落ちる。
「えっ、林!?」
「い、今、見えた、ステージに白い人が」
「ステージ?」
藍原が首を傾げてステージへと歩いていく。
よいしょ、とよじ登って、あたりをキョロキョロ見回した。
「なんだ、わかった」
愉快そうに笑って、ステージ袖に手を伸ばす。
「これが見えたんじゃない?」
裏側から、白い布を引っ張って見せる。
ステージを隠すために使っていたのだろう。
「いや、もっと人っぽい形してたって」
「気のせいだよ、昔の人は枯れた草のこと幽霊だと思ってたんだから」
見えるはずの藍原が何もいないと笑っているのだからいないのだろう。
テツヤはそう納得して、落としたスマホを拾い上げた。
まだ録画は続いている。
ただ、電池の残りを示すマークが赤くなっていた。
もういいか、と続きを撮影せずにスマホをポケットに入れる。
藍原がステージから降りてきた。
「見てたとなると林もそういう反応になるんだね」
嬉しそうに言われて、そう言われるとなんだか恥ずかしくなって来る。
「もっと人っぽかったと思ったけどな…」
「ああいう暗いステージに人っぽい白い影がみえたら怖い?」
「いや、さすがにちょっと、怖かった」
そう話しながら廊下に出て、階段を下りる。
スマホでの撮影をやめたせいでライトが一つ減ってしまった。
藍原のランタンだけが暗闇を照らす。
テツヤはその背中についていくしかない。
階段を下りて一階に着くと、ロビーと食堂がある。
すきま風で、床のゴミや入り込んだ枯れ葉がカサカサと動いていた。
「こういうのは驚かないんだね」
藍原が床を指して言う。
「まぁ、風のせいだろって思うよ」
「ロビーのカーテンが揺れた時もそう言ってたけど、でもさっきの大広間はカーテンに驚いたよね?」
「あれは、人の形に見えたから」
そう答えて、ロビーの奥に目を向けると、来た時と同じようにカーテンが揺らめいた。
「月が出たり隠れたりするってことは雲が動いてるわけで、風があるってことだから、あれも隙間風だろ」
「林は、人の形をしてると怖いと思うんだね」
「そうかもな。葉っぱとかカーテンがどんなに動いても、そこにあって当たり前のものだから驚かない。でも、こんなところに人がいるわけないと思ってるから、人の形のものが見えると驚く」
ロビーから食堂の方へ歩く。
さっき崩れた椅子とテーブルがそのままになっている。
「つまり、何か不自然だから怖いと思うんじゃないか?ここだってこれだけ椅子とテーブルがあったら、ああ食堂かで済むけど。例えばこれが、椅子が一個だけ真ん中にあるとかだったらなんとなく不気味に感じると思う」
テツヤは鈍感な自分が何を怖いと感じるのか、話しながら考える。
「じゃあ厨房は?」
椅子とテーブルで塞がれた食堂の奥にある厨房。
藍原の背中が触れて調理器具の音がしても何も怖いと思わなかった。
「お玉がぶつかった音がしたって怖くないんだよ、そこにあって当たり前なんだから。包丁が落ちてくるとまで行かなくても、でっかいナタが置いてあるとか」
「海外のホラーに出てくるやつだよ、それ」
「ああいたなぁ、あれは怖かったな。あとは…ゾンビ?得体の知れないものが大量にいるのも怖い」
結局、自分に実害がありそうなものが怖いのだ。
「あとは、昔何かあったのか?って考えちゃうのは怖いかもしれない、天井からロープがぶら下がってるとか」
「ホテルでそんなことあるかな」
「個室の天井からロープ下がってたらびびると思う、さすがの俺も。ここで人が死んだのかとか考え出すと、見えないものも見た気になりそう」
「湖で心中したカップルは?」
「あー、あんまり怖くないな、何でだろう、カップルの事情なんて俺には関係ないからかな」
テツヤはそう言うと、最初に入ってきた、壊れた自動ドアに向かう。
「どういう理由かはさておき、心中って、自分たちで完結したってことだし。俺は赤の他人でよそ者だから、巻き込まれることないだろ。他人事だから怖くないっていうか」
手元を見るためにスマホのライトをつけた。
煌々とした光が割れたガラスに乱反射する。
「他人事かぁ。…林は、ここで人が死んだって、考えたことはあった?」
「え?」
藍原の言葉に、テツヤは振り返る。
ランタンを手に下げた藍原の顔に、深く影が落ちてよく見えない。
「ロープの話?このホテルでそんな事件あったのか?」
「このホテルでは大きな事故も事件もなかったよ。でも、ホテルが出来るずっと前は、このあたりは一つの集落だったんだ。おかしいと思わなかった?湖の近くでこんなに大きいホテルがあって、なのに近くにはコンビニすらないなんて」
確かに、山奥の湖畔にぽつんとホテルしかない。
道も狭く暗かった。
「この一帯は、ずっとずっと昔に土砂崩れで村ごとなくなった土地なんだ。放置されて、忘れられて」
すぅっと風が吹いて足元で木の葉が舞う。
「たまたま航空写真で見つかって、眺めのいい空き地があるからって買い取られて。そしてまた捨てられた」
「あ、藍原?」
テツヤの声が震える。
怖い。
この恐怖は、自分に実害があると思うから感じている。
「少し、手伝ってくれないか」
ガツッ。
スマホが床に落ちて、画面が割れる音がした。
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