辻本さんはズルイ人。

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辻本さんはズルイ人。

いつも通り、私の家に来た辻本晴之(つじもとはるゆき)さんは、まるで普通の恋人のように晩御飯を食べる。 「おかわり」 「今日は、ご飯をおかわりするなんて珍しいね」 「ハンバーグが美味しくてね!やっぱり、牧野さんのご飯は最高だよ」 そう言いながら、笑うあなたの嘘を私は知っています。 ご飯をいれて、辻本さんに渡す。私は、あなたを名字で呼ぶ。 そして、あなたも私を名字で呼ぶ。 「うまいよ!牧野さん」 「よかった」 私の名前は、牧野小春(まきのこはる)。 辻本さんと出会ったのは、三年前の夏だった。 ◇◇◇◇◇◇◇◇ その夏は、記録的な猛暑日で、各地でゲリラ豪雨がやってきていた。 私達の住むこの街にもゲリラ豪雨がやってきたのだ。 この日、私は仕事が休みだった。 昼過ぎから出掛けて、デパートで、お皿や洋服を見て、気に入った物がなかったから喫茶店でパフェを食べた。 パフェを食べ終わり店から出て帰宅しようとしたその時だった。 ピカッと稲妻が走ったかと思ったら、ドドーンと大きな音が鳴り響いた。私は、怖くて堪らなくて走って帰ろうと思った。 店から、2分走ったぐらいでポツポツと雨が降りだした。 早く帰らなくちゃと思った気持ちもむなしく。 すぐに、バケツをひっくり返したような雨が降りだした。 私は、慌てて屋根のある場所に避難した。 そこは、パン屋さんの軒先だった。今日は、休みで閉まっていた。 そこにいたのが、辻本さんだった。 「よく、降りますね」 「あっ、そうですね」 「風邪ひきますよ」 そう言って、辻本さんは私にハンドタオルを差し出してきた。 「大丈夫です」 「本当に使って下さい。俺は、もう一枚あるんで」 「それじゃあ、お言葉に甘えて」 私は、そう言ってタオルを借りた。 雨は止む所か強くなっていく。 ドドーン…… 「キャッ」 雷の大きな音に私は驚いて、つい叫んでしまった。 「す、すみません」 「いえ、いいんですよ。怖いですよね。雷」 「はい」 ゲリラ豪雨のせいだった。 辻本さんは、私に近づいてそっと手を握り締めてくれる。 本当なら気持ち悪いと思ったかも知れない。 だけど、この雨は私にそんな気持ちを抱かせなかった。 手を握りしめられる温もりに安心感を覚えていた。 「君の名前は?」 手を繋ぎながら私達は、自己紹介をしていた。 「牧野さん」 「辻本さん」 30分後……。 ゲリラ豪雨が終わった。その合図を待っていたように、私と辻本さんは、走って駅前のラブホテルに行ったのだ。大人の恋に言葉なんか必要なかったのかも知れない。 ◇◇◇◇◇◇◇ あれから、三年……。 私は、辻本さんと変わらずに過ごしている。 でも、私も、今年で37歳になる。いい加減、結婚や子供を考えなくちゃいけない年齢に差し掛かっている。 女性は、男性と違って、タイムリミットがあるから……。 「辻本さん」 「何?」 ご飯を食べ終わって、食後のコーヒーを差し出した私は、辻本さんに声をかけていた。 「そろそろ、結婚とか……」 私は、言いづらい言葉を話した。 「それなら、もう仕方ないね」 ほら、まただ。 辻本さんは、少しだけ怒って、こう言うのだ。 「終わらせるなんていってないわ」 私は、辻本さんを失いたくなくて、いつもこう言ってしまう。 「俺といたら結婚は望めないよ。俺は、結婚はしない主義なんだ。それに、子供も可愛いとは思えない」 辻本さんは、私を見ないようにする。 「それでもいいわ。でも、子供は40歳だったら欲しいわね。あっ!大丈夫よ。認知してなんて言わないから……」 今日の私は、いつもより積極的だった。 「牧野さん、それは無茶だよ」 辻本さんは、私の手を握りしめて笑った。 私は、無茶で! 彼女は、無茶じゃなかったの? 「認知してって言ってないわ」 私だって、今日は引きたくないのよ。 だって、辻本さん。 私は、あなたの大きな嘘を知ってしまったから……。 ◆◆◆◆◆◆◆ それは、昨日の出来事だった。 独身である同僚の成川緑(なりかわみどり)さんと私は、デパートに後輩の照井京子(てるいきょうこ)さんの結婚祝いを買いに来ていた。 「小春ちゃん、私、あっち見てくるね!後で、本屋さんで合流しよう?」 「はい。大丈夫だよ」 私と緑ちゃんは、そう言って別れた。 私は、キッチン雑貨を見ていた。 「ママー」 「パパといたら、(しゅう)ちゃん」 その声に顔を上げると辻本さんの奥さんが居た。 半年前、会社帰りにたまたま三人で歩いているのを見かけたのだ。道路を挟んで、反対側を歩いていた。 辻本さんは、私が目撃した事を知らない。 「ママ、大丈夫か?」 「大丈夫よ!二人目よ。慣れてるわよ」 私は、その言葉を聞きながらショックを受けていた。 「もうすぐ安定期だから、大丈夫」 「パパー、トイレ」 「無理したら駄目だぞ!宗連れて行ってくる」 「うん。見終わったらベンチに座ってるから」 「わかった」 そう言って、辻本さんはいなくなった。 私は、お腹の膨らみを愛おしそうに撫でる奥さんを見つめていた。 五ヶ月前、私が子供の話をした時には駄目だと言ったじゃない。 彼女を見ていると彼女を突き飛ばしたくなりそうだったから、私はさっさと雑貨屋さんを出た。 結局、私は、後輩への結婚祝いは買わなかった。家でネットで買うわと笑って緑ちゃんに伝えて帰宅した。 そして、二時間後……。辻本さんは、いつも通り現れたのだ。 ◆◆◆◆◆ 「牧野さん、駄目だよ」 「ここから、いなくなれば辻本さんに迷惑がかからないでしょ?」 私は、もう後には引けなかった。 辻本さんの子供が欲しかったから……。 ううん。 辻本さんと結婚したかったから……。 「牧野さんがいなくなったら困るよ」 辻本さんは、私に近づいてきて手を握りしめてくる。 「辻本さんなら、すぐに好い人が出来るわ」 「好い人なんかいらないよ!牧野さんが居てくれなきゃ……。困るよ」 辻本さんは、いつも牧野さんが居てくれなきゃ困ると言うけれど、愛してるや好きなどは言ってくれない。 困るのは、辻本さんだけでしょ? それに、辻本さんは、私がいなくなるのが困るんじゃない。 ご飯を食べれないのが困るの……。 欲望を吐き出せないから、困るの……。 この家がなくなるのが困るの……。 私は、それをわかっている。 わかっていながら、気づいてないふりをしてきたの。 「牧野さんが、いなくなったら俺は困るんだよ」 辻本さんは、私の頬に手を当ててくる。 「牧野さんだって、俺といたいよな?」 辻本さんは、私の首を縦に振らせる質問しかしない。 馬鹿な私は、頷くの。 「そうだよな!牧野さんは、俺と会えなくなったら生きていけないだろ?」 ほら、また私を頷かせる。 「やっぱり、牧野さんも同じ気持ちなんだろ?」 どうして、辻本さんは、私に「NO」を言わせてくれないの……。 「牧野さんが、嫌ならもうやめる!もう二度と来ないから……」 最後は、決まってそう言って辻本さんは立ち上がって帰ろうとするの。 「行かないで……。私、いい子でいるから……。もう、ワガママなんか言わないから……」 「牧野さん、偉いね。いい子だよ」 私は、辻本さんに頭を優しく撫でられる。 辻本さんは、ズルい。 辻本さんは、嘘つき。 わかっていながら、私は辻本さんから離れられない。 私の心も体も、辻本さんに張り付いているみたいなの。 剥がす事は、簡単ではない。 辻本さんは、そんな私の気持ちを全てわかっている。 「牧野さん、また次に言ったら、もう来ないから」 「言わないわ」 辻本さんが、いなくなるのを私は耐えられない。 「辻本さん、愛してる」 「ありがとう」 辻本さんは、愛してるなんて言ってくれない。 本当は言って欲しいけど……。 辻本さんが、来なくなるのは嫌だから言えない。 「牧野さん」 辻本さんは、私を優しく抱き締める。 こんなに苦しくて…… こんなに悲しいのに…… 何で、私は…… 辻本さんの背中に手を回してしまうのだろう? 「辻本さん、愛してる」 愛してるに答えをくれないのをわかっていながら、私はどうして辻本さんに愛を叫んでしまうのだろう? 辻本さんは、何も言わずに私を抱き締めてくれる。 「牧野さん、このまま抱いて欲しいんだよな?」 私の耳元で、辻本さんはそう言った。 私は、また辻本さんの沼に落ちてく。 それは、底無し沼…… これ以上続ければ、戻ってこれない事を私は知っている。 それでも、私は辻本さんの手を振りほどけない程に深く深く愛してしまっている。 ♡♡♡♡♡♡♡ あれから、半年が経った。 どうやら、奥さんが出産したのではないだろうか? 「牧野さん、今日はね。泊まれる。嬉しいだろ?」 「本当に!嬉しいわ!辻本さん」 奥さんは、多分里帰り中なのではないかと私は推測した。 「ただね、九時半にだけ一件かけなくちゃいけないんだよ。電話して、大丈夫?」 「構わないわ!黙っておくから……」 「今は、便利だよな!背景も変えられて……」 どうやら、辻本さんはテレビ電話をするらしい。 九時半がやってくると辻本さんは、お風呂場へ、そそくさと行った。 私は、静かにしながらそっと耳を押し当てて聞いた。 「宗、いい子にしてるか?」 『パーパ、パーパ、してるよ』 『七海が寝たのよ!パパ疲れてない?ご飯食べてる?』 「大丈夫だよ!ゆっくりしてきな!」 『お母さんが、首が座るまではいた方がいいってうるさいのよ』 「ハハハ。俺の事は心配しないでいいから!お義母さんの言う事を聞いたらいいんだよ」 私は、耳を当てるのをやめた。 情けない。 私が、一番惨め。 暫くして、辻本さんは戻ってきた。 「ごめんな。後輩が、初めてのプロジェクトで!今、手伝ってるんだよ」 「そうなんだね」 スラスラと嘘をつける辻本さんは、きっと昔から誰かとこうなっていたのだとわかる。 「牧野さん?大丈夫?」 辻本さんは、私の頬に手を当てる。 「泣いてるのか?」 「えっ、あっ。さっき、仲良しの友達のワンちゃんが調子悪いってメッセージきて。大好きなワンちゃんだったから……」 「そうなんだな。大丈夫か?」 咄嗟に嘘をついた。思い出したのは、学生時代の友人の家にいたワンちゃんだ。 確実にもうお亡くなりになっているだろう。 「牧野さんは、優しいな。そういう所が……」 待って! もし……。 今……。 その言葉を……。 言ってきたら……。 辻本さんは、世界で一番ズルい人間だよ。 「小春、好きだよ」 辻本さんは、ズルい人間。 私が欲しかった言葉を今になって使ってくるなんて……。 最後の切り札のように、名前まで呼んできて……。 「暫く名前で呼び合いたい。駄目かな?」 「ううん」 次は、私に首を横に振らせるのね。 「小春の家に暫く泊まりたいんだけど……。駄目かな?」 「ううん」 ほら、またそうやって首を横に振らせる質問ばかりして……。 私と辻本さんは、顔を見合わせる。 お願いをする時、辻本さんは私を覗き込むように話す。 「小春のご飯が毎日食べたいけど、駄目かな?」 「ううん」 私は、また首を横に振った。 辻本さんは、飴とムチの使い方がうまい人。 「小春、好きだよ」 「晴之さん、愛してる」 辻本さんが、愛してると言わないのなら、私が愛してると言うだけ。 私の方が、辻本さんの好きよりも、もっと気持ちがあるのよって伝える為に……。 「小春、一生一緒にいような」 「えっ?」 それって、このままの関係を続けるって事だよね? 私は、年をとってくのに? 辻本さんは、子供も奥さんもいるのに? それは、嫌。 それは、出来ない。 そんな事……。 「嫌なら、もう終わりに……」 辻本さんは、ズルい。 「ううん。そうしよう」 嫌なのに……。 終わらせたいのに……。 どうして、私は辻本さんを失う方が嫌なんだろう? もう、引き返せない場所に進んでるのはわかっている。 「小春、好きだよ」 私は、辻本さんに引き寄せられて、抱き締められて、耳元でそっと囁かれる……。 もう、いい。 考えるのは、明日にしよう。 私は、ゆっくりとこの沼に沈んでいく。 深い深い深い……。 沼の底へ 光さえも……。 届かない その場所へ 私は、ゆっくりと沈んでいく
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