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『秘密、守れるよな?』
僕には、立派な兄がいた。
幼いながらも、それはそれは尊敬出来る兄だった。
両親や、周りの大人なんかよりも、ずっとずっと。
仕事で忙しく、何かと理由をつけて家を空けてしまう両親なんかよりも、学校と役者としての仕事を両立しながら、僕に愛情を注いでくれたのは、紛れもなく兄だった。
「…兄ちゃん?」
ある夜の出来事だった。
ふと、目を覚ましてしまった僕は、隣で寝ているはずの兄の姿が見えないことに不安を覚え、部屋を飛び出した。
暗闇に沈んだ部屋の中で、兄は背中を向けたまま、俯いている。
時々、鼻をすする音が聴こえてきて、このままでは僕の大好きな兄が暗闇に溺れてしまうのではないか。
おそるおそる、踏み出して兄の隣に座った。
小さく息を呑むような音がしたけど、見上げることもせず、右肩に伝わる兄のぬくもりだけを感じて、目を閉じた。
次に目を開けると、朝の柔らかな陽射しが渇いた目に刺さった。
ぽろぽろ、と音もなく涙が流れていくのを感じると、兄はいつものように優しく笑って僕の涙を拭ってくれた。
「おまえまで、泣くことないのに」
「…何の話?」
「ふふ、そっか。優しいな、誰に似たんだろう」
「兄ちゃんではないかも」
「なんだって」
優しいその指先は、あたたかい。
ほんとは、伝えたいんだ。
僕に出来ることがあるなら、何でも言ってほしい、って。
きっと今は、涙の理由を聴かないことが、僕に出来ることだろうから。
「…秘密、守れるよな?」
頼りない兄の声を聴いたのは、後にも先にも、その朝だけだった。
世の中の人間が、おれを天才だと評価していても、信用が出来ないと思った。
おれは、物心ついた時から、芝居という世界に心を惹かれていた。
テレビの画面を前のめりで覗き込んでいる姿を、父さんと母さんは笑いながら見守ってくれていた。
そんなふたりを見ていたくて、その笑顔を守りたいと思った。
お芝居の勉強がしたい、そう言葉にして伝えた時も、ふたりは頷いて背中を押してくれた。
初めて足を踏み入れた劇団のレッスン室には、おれよりも何倍も年上の大人ばかりが鏡の前に並んで立っていて、冷たい瞳でおれを見下ろしていた。
よろしく、と握られた手は、強い力で握りつぶされてしまうのではないかと、恐怖を覚えた。
一年も経たないうちに、おれは舞台のオーディションに合格し、見事に主役を勝ち取った。
それからというもの、おれの機嫌を窺うような大人たちの声色が、耳に残るようになった。
その矢先、おれの大好きだった母が事故で亡くなった。
舞台の千秋楽が無事に幕を閉じた、その時に初めて知らされたため、母に会えた時には、すでに小さな箱に閉じ込められた姿だった。
母の死を実感出来ないまま、母の死を受け入れられず壊れていく父を直視出来ないまま、おれは芝居を続けた。
足を止めるわけにはいかなかった。
おれは、ふたりの笑った顔が見たくて、そんなふたりを守りたくて、ツラいレッスンも、世の中の期待も、全部を味方につけようと、必死で走り続けているのに。
それから、数年経ったある日の夜。
疲れた身体を引きずり、玄関のドアを開けると父の笑い声が聴こえた。
昨日まで、暗闇の中で溺れていたはずなのに。
部屋の奥のドアの隙間から、明かりがこぼれている。
耳を澄ませてみると、柔らかい女の声と、無邪気な子供の声がする。
「…父さん、入るよ?」
ドアノブに手をかけ、ゆっくり開いてみると、そこには初めて見る女性と小さな男の子の姿が視界に映った。
そのふたりこそ、今では大切な、もうひとりの母と弟だ。
血の繋がりなんてものは、たいした問題じゃない。
本来であれば、もっと拒否反応が出ると思っていた。
おれの母さんは、この世でたったひとりだ。
それは、今だって変わらない。
けれど、母さんを失った悲しみで壊れてしまった父さんを、笑顔にしてくれた。
ふたりの存在は大きかった。
何より、ふたりはおれを普通の人間として扱ってくれた。
ありのままの自分でいられる場所が、此処にあるんだ、と思えただけで、生きていける気がした。
「兄ちゃん、今日も帰り遅いの?」
「んー…どうかな」
「最近、母さんも父さんも仕事が忙しい、って帰ってくるの遅いんだ」
「しょうがないよ、仕事なんだから」
「でも、兄ちゃんも仕事してるのに」
「おれは、まだ学生だからさ。遅い時間まで仕事が出来ない決まりがあるの」
「そうなの?」
「夕飯、何食べたい?」
「なんでもいい」
「いちばん困るんだよ、それが」
「でも、ほんとなんだもん」
「ふーん?」
「兄ちゃんが作ってくれる、ご飯はいつも美味しいから」
おれに、この笑顔を守れるだろうか。
あの時のように、悔しい思いはしたくない。
悲しい思いもさせたくない。
強くならなきゃ、立派にならなきゃ、もっと、努力しなきゃ。
そう思うたびに、芝居への熱量を高めていられた。
やりがいを感じた。
同時に、結果を残すことも出来た。
すこしずつ、一歩とはいかずとも、半歩でも。
前に進んでいけるような気がした。
ただ、ぽきり、と。
小さな音を立てて、支えが折れてしまう夜があった。
そんな時は、静かに、気付かれないように部屋を抜け出して、暗闇に溺れる時間を作った。
不思議な安心感と居心地の良さを感じていた。
だから…なのかな。
小さな足音にも気づけず、大事にしたいと、守りたいと思っていた小さな弟の震える肩のあたたかさにすこし怯えてしまっている自分が情けなくて。
自分が泣いていたことにも気づかず、それを見て見ぬふりをしてくれた、十二歳の弟が、いちばん大人であること。
おれと、三つしか変わらないのに。
おれよりも、ずっと大人だった。
「おはよう」
「…ん、おはよ」
「おまえ、座りながらよく寝れたなぁ」
「それは、兄ちゃんも一緒でしょ」
「兄ちゃんは、レッスンの休憩中とかで寝るから、座って寝るのは得意なんだよ」
「そっか」
「なんだ、興味なさそうだな」
「興味なさそう、じゃなくて、ないんだよ」
「冷たいなぁ」
「いつもどおりじゃん」
「なんだかんだ言いながら、兄ちゃんのこと大好きだろ?」
「自惚れんな」
「わっ、兄ちゃん悲しいな。そんな子に産んだ覚えはないんだけど」
「それを言うなら、育てた覚えはない、じゃない?」
「へぇ、そっか。じゃあ、兄ちゃんに育てられた自覚はあるってこと?」
「…………寝言は寝て言うものじゃなかった?」
「さあて、朝飯作るかぁ」
重たい腰を上げて、冷えたその手をあたためるように、優しく握った。
「優斗」
「なあに」
「ありがとな」
「僕、なんかしたっけ?」
「うん。生まれてきてくれて、ありがとう」
「はぁ?」
「母さんにも、父さんにも、感謝しなきゃな」
「…母さんと兄ちゃんは、血が繋がってないじゃん」
「血の繋がりなんて、どうでもいいんだよ。そんなものなくたって、家族になれるんだ。おれたちみたいに」
「……僕には、難しくてわかんないよ」
「そのうち、わかるさ。きっと」
大好きな、大切な家族にとって、おれはどんな風に映っているんだろう。
これから先も、ずっと普通の人として見守ってくれているのだろうか。
そこに、ほんのすこしの憧れを持ってもらえたら、それはそれで誇らしい気持ちになるのだけれど。
「兄ちゃん」
「うん?」
「目玉焼き、半熟じゃない」
「あっ、ごめん」
「でも、美味しいからいい」
「…そっか」
ガチャリ、と玄関から鍵の開ける音がした。
多分、この足音は父さんのものだ。
時計に視線を向ければ、七時二十分。
そろそろ家を出ないと遅刻してしまう。
「ほら、行くぞ!遅刻する!」
廊下ですれ違った父の顔は、少々疲れた色をしていたが、すぐに笑ってこう言った。
「彼方、優斗、行ってらっしゃい」
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