猫と涙 ~猫のこまりごとシリーズ~

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 雨の強い日、僕はマルになった。  黒い体に白い丸斑があるからマルだそうだ。  どうして自分一人、公園のドームのなかにいたのか、今ではよく思い出せない。近くでカラスがカーカー鳴いていた気がする。  はっきり覚えているのは、ガチャガチャ鳴るランドセルの音。氷のように冷え切った体を、しびれるほど暖かい手が包んでくれたこと。ふわふわのタオルで、びしょ濡れた体を拭いてくれて、ぬるめたミルクで僕のお腹を満たしてくれたこと。  そして、傘を公園に置いてきたって、ママに叱られてたこと。  ママったらおっかなかったよ。僕だって、耳が倒れて尻尾が下がったもの。  その時も、コウキとユウトは二人一緒だった。コウキは僕を抱いていたから、傘を差せなかっただろうと思うけど、ユウトってば付き合いがいい。  僕はコウキの家の立派な飼い猫になった。夕方になるとユウトは毎日のようやってくる。あんまりいつもいるんで、最初は僕、ユウトもここの家のこなんだと思ってた。だって一緒にご飯だって食べるんだから。  コウキは、人間の子供にしては大いに見込みがあるやつだ。落ち着いていて、悠然と動く。大声を出さないし、おやつの時間もきっちり守る。  それに比べてユウトときたら、「おおー」っと急に叫ぶし、思い立ったように立ちあがってジャンプするし。気が抜けない。  でも、戦いごっこは上手で、僕に負けないところは認めてる。それに、僕に触ろうとするとき、遠慮がちにとってもゆっくり手を伸ばしてくるのを知ってる。  だからそろそろ、頭を撫でさせてやってもいいかなと思っている。  コウキが、手入れされたピカピカのランドセルを背負って玄関を出る。  僕はカーテンの下を潜り抜けて、ガラス窓の前へスタンバイ。  コウキと合流したユウトのランドセルは、いつ見ても傷だらけでボロボロだ。乱暴にあつかってんだな。  二人を見送ると、次は庭を眺める。ここは猫の通り道らしい。  大概の野良は、僕に一瞥くれてさっさと行ってしまう。だからこちらも視線をそらしてやる。  気のいい奴も中には何匹かいて、世間話をすることも増えた。  今話題の中心は、「ねこまたばあ」らしい。  千年生きた妖怪猫で、なんでも望みを一つだけ叶えてくれるらしい。酔狂な奴もいたもんだ。最近ここいらに越してきたって? 人間と暮らしてる変わり者らしい。  それからここから三軒先にいる白猫が、とびきりかわいいって話で盛り上がってたけど、まさかご本猫がやってくるとは。  みんなどぎまぎしちゃって、みっともないったら。  でも、僕、あんな猫がお母さんだったらいいなあ、なんて。  しばらく話して、「カラスが増えたから気を付けて」、とお決まりの文句で解散した。  気に食わないのは、灰茶の猫だ。奴は僕を見付けると慇懃に頭を垂れてニヤニヤしてくる。僕は強気だ。いつでもやってやる。  カーと鳴いたカラスが二羽、電線からこちらを見ている。嫌な感じだ。  視線を戻すと、灰茶の猫はいつのまにかいなくなっていた。  用を済ませた僕は、ソファに登って昼寝を決め込んだ。二人が帰ってきたら、思いっきり飛び跳ねられるように。  その日、コウキは一人で帰ってきた。「あれ? ユウトは?」と鳴くと、コウキは僕を抱き上げて自分の部屋に入ってしまった。  ベッドに腰かけると、僕を膝にのせて頭から背中まですっかり撫でてくれる。気持ちいい。お礼にゴロゴロと喉を鳴らす。  あんまりずっと撫でるものだから、気持ちよさもだんだんむずむずしてきて、僕はコウキに戦いごっこを挑んだ。  へいへい、こっちこっち。 腕に巻きつたとみせて、ぴょーんと跳躍して構えた。  でも、コウキはのってこない。じっと座ったまま、ぽたぽたと目から滴を垂らしている。  大雨だ。僕は知ってる。  大雨は、辛い、悲しい、寂しいだ。  ママに呼ばれるまで、僕とコウキはベッドの上でくっついていた。横になったコウキの背中と僕の背中。くっついていれば元気になるはず。  「ごはんできたよ」 ママの声が優しい。僕は、「コウキご飯食べよう」と尻尾で誘った。コウキは首を振ると、僕のお尻を軽く押してママの方へ行くよう促した。  今日のご飯は旨くない。コウキの席にコウキはいない。  ママが、減らない僕のお皿の中を見て、僕に言った。 「コウキね、ユウト君とちょっとケンカしちゃったみたいなの。でも大丈夫、すぐ仲直りするから。だからマルもしっかり食べなさいね」  いくら待っていても、コウキはご飯を食べに来なかった。お腹が空くのは体に良くない。僕は、おやつの棚から「おいしいカツオ」をくわえ出して、コウキの部屋へ僕専用のドアを通って入っていった。  コウキはベッドに丸くなったままだった。すぐ食べられるように、口元に「おいしいカツオ」を置いてやる。  目を開けたコウキは、僕を撫でて、 「今日はソファかママのところで寝な」 と僕を部屋から出してしまった。その声は、ミルクが必要なほどカラカラに聞こえた。  僕は、言う通り階段を下りて、リビングのソファに向かった。  コチコチと時計の音がする。コウキはご飯を食べてくれただろうか。コウキはもう眠っただろうか。  もう一度コウキの部屋を訪ねたが、僕専用ドアも封鎖されていた。  ソファに戻っても眠ることが出来ない。「寝る子で猫なんだよ」そういっていたのはコウキだ。ユウトはそれをへえっと面白そうに聞いていた。  なんでケンカしちゃったんだろう。  ユウトは今頃どうしているんだろう。  コウキは、あの雨におぼれて死んじゃわないだろうか。不安で不安でたまらない。  キリキリ。  ガラスを叩く固い音。音のする方へいくと、またキリキリと音がする。 カーテンの下を覗き込むと、窓の外にはあの灰茶の猫がいた。  「へへ。こんばんわ。お困りで?」 胡散臭い鳴き声が耳に障る。  「お前になんか用はない。僕は忙しいんだ」  「ねこまたばあってご存じでしょ?」 奴はこっちの話なんか聞きゃしない。でも、ねこまたばあって。 「その話、ホントなの?」 僕は聞いてしまった。 「本当ですとも。坊ちゃんのことで、お困りでござんしょ?」 「何で知ってるの?」 「知ってますとも。ぜーんぶちゃーんと」  カチリと窓の鍵が開く音がした。 「申し遅れました。あたくし、ジロと申します。ささ、ご案内しましょ」 そう言われるまま、僕はジロに付いて行った。  だいぶ歩いたと思う。細い暗い道を何度も曲がったから、一人で帰れるとは思えない。それでも、コウキの為ならとジロのあとに続く。  「ここでさ」  案内されたのは、歪んだ柱で建つ小さな家だった。周りはただ真っ暗で、この奇妙な家ばかりが灯りを伸ばしている。  「お入り」 お腹に響く雌猫の声。僕は、ぶるっと体を震わせてから、目の前の家の中に入っていった。  中にいたのは、でっぷりとした体格のいい紫の大猫だった。スパスパとパイプを吸って、煙を吐き出している。瞳は紅く光っていて、僕を値踏みしている。  僕は思い切って声をかけた。 「僕はマル、です。僕の友達を笑顔に戻したいんです。実は、き」 「あーあーあーいいから、わかってるから。」 煩わしそうな声に押しとどめられて、僕は黙った。  「あたしは猫又のリラ。百年生きた、ねこまた様だよ」 「さあ、大好きなコウキ君が大ピンチだ。ほっといたら溺れて死んじまうねえ。」 「あたしなら助けてやれるが、どうするね? そうだねすがるしかないよねえ」 間に煙を吐きながら、リラはしゃべる。  「よろしくお願いします」 また遮られると思って、僕は早口に言った。  「お代は貰うよ」 リタが鋭く聞いたので、僕はしどろもどろになる。 「僕に払えるもの?」 「もちろんさ。簡単なこったよ」 悩む必要なんてない。 「わかった。僕、コウキを笑顔にする」 「決まりだねっ!」  リラはニヤッとすごい顔で大きく笑うと、自分のひげを一本引き抜いた。 「ほれ、こっちきな」 呼ばれていくと。右の頬に、さっき引き抜いたリラひげをプスっと刺された。 「痛っ」というとリラはイライラしてブツブツ言った。  「いいかい? まずコウキの目をじっと見る。そしたらひげをピクピクさせな。悲しみが出てきたら尻尾でヒョイって飛ばしな。絡みつかれて取り込むんじゃないよ。面倒だからね」  「分かったらさっさとお行き。」 リラはジロを呼んで僕を案内させた。とっても早く帰ってほしいみたいだった。  家へ帰ると、僕はコウキの部屋へ走りこんだ。封鎖中のドアのことを忘れて突っ込んだから、大きな音がした。  コウキは大きなドアを開けて僕を部屋に入れてくれた。  僕は言われた通り、コウキの目をじっと見た。暗い水が揺れているのが見える。次に、ひげをピクピクさせた。すると、リラのひげがコウキめがけてピュっと飛んで行った。「うっ」とコウキは唸って目を閉じる。すると、リラのひげが刺さったところから、蒼い透明な水があふれてきて、僕とコウキの間でふわふわゆらゆら漂い始めた。  これが、悲しみ? 僕は忘れずに尻尾をヒョイってやったんだけど、どうやら失敗したみたい。悲しみは僕にまとわりついて、すーっとしみ込んでしまった。  僕は、コウキを見る。コウキはもう泣いていなかった。  ギラギラとした瞳、燃える頬。コウキは、わなわなを体を震わせて怒っていた。  コウキは、ベッドにもぐりこんで、大声で怒鳴っている。声を聞きつけたパパとママが駆けつける。  「あいつがあんなこと思ってたなんて。ひどい侮辱だ」 コウキがパパとママに怒りをぶつけている。たくさんの言葉を吐き出している。  僕はと言えば、三人をどこか遠くに見ていた。僕は、僕の中に突然現れた悲しみに戸惑っていた。  胸がチリチリする。  ああ、コウキはユウトとケンカしてこんなに悲しかったんだ。こんなにユウトのことが大切なんだ。  あれ、これ、大切なものなんじゃないの?  「ううっ」と声をあげて、コウキは握りこぶしを握っていた。僕に気付いたパパが僕を部屋の外に出した。  僕は痛む胸を抱えて、リラの元へいこうとすると、待っていたようにジロがリビングへ現れた。  こいつに縄張りに入られるのは嫌だな。そう思いながら、僕たちはリラの元へ向かった。  リラの家に入ると、リラは二本の尻尾をふりふり待っていた。えらい上機嫌だ。  「違ってる。」 僕はリラに言った。リラは「はあ?」と眉をよせた。 「何が違ってるんだい。涙は止まったろ?」 リラは譲らない。 「これ。この悲しみは、仲直りに必要なんだ。コウキに返さなきゃ」  「そいつは無理だね」 ブハーっと煙を吐き出すと、リラは吐き捨てるようにいった。 「だってあんた、今、ここで、死んじまうからね!」  リラが合図すると、ジロが僕を抑えつけた。 リラは涎を垂らしてゆっくりと近づいてくる。 「あんたたち兄弟猫はもともと私への捧げものだったんだ。それを一匹取り逃がしちまって。あげくに、人間のガキがしゃしゃり出て、邪魔ったらないよ。それもまあ意趣返し出来たことだし、溜飲を下げようかね」 リラはパイプで僕の腹をさする。 「ああああ、こんなに育っちまって、固くなっちまったかね? まあ食いでがあるかねぇ」  「じゃあいただこうかねっ」 僕食べられちゃう! そう覚悟したとき、ジロが拘束を緩めた。  するりと抜け出すと、ジロは二羽のカラスに突きまわされていた。 リラは、遠くに飛びのいていて、叫んでいた。 「誰だい、邪魔するのは!」  「邪魔なんてしないわよ。ただ、ルールは守らなきゃ」 そう言って現れたのは、あのきれいな白猫のおばさんだった。  「笑顔にしてないんでしょ? 契約違反だわ。だからあなたは、このこからお代は貰えない。でしょ?」  堂々とした白猫のおばさんは、尻尾をふぁさっと振って見せた。その尻尾は見事な白い二本尻尾だった。  「おまえ、あのときのねこまたか!」 「千年生きるねこまた様よ。よろしくね」  百年生きたねこまたのリラは、千年生きたねこまたのおばさんにひるんだみたいだった。  いつのまにかジロはいなくなっていて、二羽のカラスがリラに向かってカーカー威嚇している。  「もういくわ。いいわね?」 白猫のおばさんが言うと、リラは「勝手にしなっ」と胡坐をかいていた。  おばさんと帰る道のりは、あっという間だった。家へ帰るともうすぐ夜明けがくるところだった。  おばさんは「さあ、元通りにしましょうね」といって僕の胸に尻尾をあててこちょこちょとした。それからするっと尻尾をはらうと、そこにはさっきの水が浮かんでいた。  水はゆっくりとコウキの胸のあたりにしみこんでいって、すっかりなくなった。  僕は、ダイニングにおばさんを招待した。戸棚から「おいしいカツオ」を引っ張り出して、ぜひぜひと食べてもらった。  「あの、おばさん? おばさんも僕を食べる?」 そう聞くと、おばさんは笑って 「お代はもういただきました」 といって舌をペロッとした。  「それと、わたしの名前は今はハク。白いからじゃなくて、琥珀の瞳のハクなんですって」 とコロコロ笑う。ああ本当に僕のお母さんだったらいいな。 ハクさんと別れるのは寂しかったけれど、近所に住んでるからまた会えるって言ってくれた。  それと、やっぱり「お母さんになって」なんて言えなかった。  朝が来ると、コウキは酷い顔で起きてきた。  腹ペコのお腹にご飯を詰め込んで、ピカピカのランドセルを背負う。  「よし!」と急に大きな声をだすと、勢いよく玄関から出ていった。 僕はびっくりして逆立った背中をなだめなから、リビングの窓に向かう。  「「ごめん」」二人の重なった声が聞こえた。  ピカピカとボロボロのランドセルが並んで歩いていく。  きっと今日は二人で帰ってくる。  僕は、長めの昼寝と決め込んだ。
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