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第4章 (7)
それは、この時点から1年とひと月ほど前のこと、つまり零が公園で拾われる前日に起きたことだった。戸ノ倉は彼が担当する有名俳優とある現場に向かっていた。別に急ぐ必要はなかったが、助手席に座りながら冷や汗をかいていた。
「もう、運転変わりましょう。なにかあったら困ることになります」
「ええー。いいじゃん、この車一度は運転したかったし」
「でも、もしものことがあったら」
「ないよ。俺が運転上手いの知ってるだろ? 免許だって、取ったし」
取ったけど、免停になって今はないだろうが。喉元まで出そうになったが、また不機嫌になると困る。
「それでも……お酒も入ってますし」
「ビール一杯だろう? あーもう、うるさいな。気分も台無しだ。もういいよ。国道にでたら変わるよ」
「あ、はい。お願いします」
ようやくこの恐怖から解放される。ほっと安堵の息を漏らしたその時だった。
「うあっ! なんだ!」
「危ない! ブレーキ! ブレーキ!」
メイン道路ではなかった。国道を1本入った空いた道だ。駅に行く裏道として、通勤時は混むようだが、この時間はたまにすれ違うだけ。そう思って少しスピードが出てただろうか。だが、明らかに角から人が飛び出してきた。まるで子供の飛び出しのように。
道路にタイヤをこすりつける耳障りな音とともに、車は止まった。どすんとなにか当たったような衝撃、背筋に電気が走る。
「誰か轢いたっ?」
若手俳優が慌てふためく。戸ノ倉はシートベルトを必死に外してドアを開けた。
「君、大丈夫か!?」
道路に一人の青年が倒れていた。天然パーマでアイボリーのジャケットを着ている、肌の綺麗な若い男だ。
「死、死んでるのかっ?」
俳優はそばによるとしきりに周りを気にした。
「今、誰もいないから、とにかく車に運んでよ」
「えっ。でも」
「ああ、あんた何てことしたんだよ。さっさと警察呼べよ」
「は……?」
そうか。戸ノ倉はようやく理解する。こいつ、俺が運転して轢いたことにするつもりだ。馬鹿なくせに、こんな時ばかり知恵が回るな。
だが……確かにそうするべきだろう。心から残念だが、この男は自分の事務所をしょって立ってる看板俳優だ。
「落ち着いてください。そんなに簡単にはいきませんよ」
「な、なんだよ」
「とにかく、彼を運びましょう」
青年は生きていた。車の後部座席に乗せてから、道端に落ちているスマホと小さな鞄を拾い、他になにもないか確認した。そして、当然のことのように自らハンドルを握った。
「これからどうすんだよ」
「落ち着いてください。とにかく君は現場に行くんです。駅で下ろしますから、電車でもタクシーでもどっちでも構いません」
「と、戸ノ倉さんは……」
俳優の声はだんだん小さくなり、語尾も消えそうになってきた。
「私のことはほっておいてください」
「でも」
「いいですか。君はこのことを知らない。全部忘れるんです」
「忘れる……」
「そうです。ただ、これからは私の言うことを聞いてください。我が儘はもう許しません」
それが可能になるなら、こんな事件を背負うことくらいなんでもない。戸ノ倉はそう考えることにした。俳優は無言で頷いた。
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