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花幻
六本木の毛利庭園を流し歩きながら、鸞は恐る恐る孔明の逞しい腕に手を添えた。こんな陽気なら、許してくれそうな気がした。
「暖かくて気持ち良い」
「そうだな。本でも持ってくるのだったな」
でしたら喜んでお膝を貸します、と言ってしまいそうになり、鸞は口をつぐんだ。無類の本好きである兄に膝を貸して、どこかベンチでゆっくり時を過ごせたら、どんなに幸せだろう……時代小説を夢中で貪り読む兄の髪を撫でながら。そんな日は、或いは来ないのかもしれないと、鸞は俯いた。
一昨年に母を亡くし、鸞はプロのピアニストであった母の後を追いかけるように打ち込んできたピアノの道を、あっけなく閉ざしてしまった。
厳しかったレッスンに耐え、国際コンクールでも何度も入賞し、モーツァルテウム音楽院への留学の道も開かれていたのに、どうしても母を喪って続ける気力が湧かなかったのだ。
高校三年になった時、突然法学部への進学を目指し、猛勉強を始めた。
同時に、それまで体力の問題で中々本格的な訓練ができずにいた武術全般の手解きを、既に手練れの域に達していた孔明から受け始めたのであった。
兄と同じ場所にいたい、兄の隣に立ちたい……不純な動機と引き換えに、鸞はその厳しさに耐えた。
桔梗原家はかつて京の御所で天子様の側近くに使え、内裏内での御神体をお守りする役目であったという。明治維新後は華族として、脈々と家訓を継承してきたのであった。
家訓を背負う孔明の稽古はとても厳しい。しかし、さんざんに投げ飛ばされ、打ち込まれても、立ち上がって諦めずに挑み続ける鸞を、最後にはあの大きな手で頭を撫でながら褒めてくれるのだ。
「竹刀で手首を打ち付けてしまったな。見せなさい」
「大丈夫です……うわっ」
見せまいと手を引く鸞の手首を掴み、孔明が優しく引き寄せると、それだけで鸞の細い体は孔明の胸の中に収まってしまう。
「もう、大丈夫だってばぁ……」
そんな時は、孔明の道着からは愛用のボディシャンプーの香りに混じって若者らしい汗の匂いが立ち上り、クラクラするほどの芳香となって鸞を陶酔させてしまう。
「腫れてるな。湿布を貼っておけ。ピアノが弾けなくなったら大変だ」
「いいよ別に……辞めたもの」
「私はおまえのピアノが大好きなんだが」
「兄上……」
「あ、その……父上も、そうだから」
いつものことだ。もう少しその香りと体温を堪能したいと望んだ瞬間、そんな劣情から逃げるように孔明は道場から……鸞から去ってしまうのだった。
まるで桔梗原家の申し子のような孔明は、父の後を継ぐべき人物と、一族の期待を背負っていた。
しかし、難関私大の法学部をこの3月で卒業した彼は、受ける筈で準備していた国家公務員試験を、受けなかったのだ……。
何か考えがあるのかと聞きたくても、その答えが何やら恐ろしく、鸞は尋ねる事ができなかった。
いや、それより先にきちんと伝えなくてはならない事がある。
「兄上、あのね」
「ん? 」
桜を見上げながら、いつになく解けた表情で、孔明が鸞に聞き返した。
「僕ね……」
息を吸い込んだ途端、風に煽られた桜が吹雪のように花弁を空に散らした。花弁は孔明の姿を煙に巻くようにして、鸞との間を隔ててしまった。
「見事なものだ」
花弁の向こうで微かに聞こえる孔明の呟き。
鸞は、完全に機を奪われてしまった。
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