百舌

1/1
前へ
/7ページ
次へ

百舌

 孔明が父・玄徳の実子ではないことを、鸞は大学受験用の戸籍謄本を取り寄せた時に初めて知った。  孔明は、生まれてすぐに両親を交通事故で亡くしていた。その実父が玄徳の無二の親友であり、天涯孤独となった孔明を迷わず養子に迎えたのであった。  これまで、兄に対してこんな感情を持ってはいけない、気の迷い、憧れが少し強いだけ……と無理やり封じていたものが、血の繋がりがないことを知って一気に溢れ出そうとしていた。  兄の側にいたい、兄の背中に頬を寄せたい、兄と手を繋ぎたい……初恋をする女子高生のように、鸞は顔を赤らめて下を向きながら、孔明の肘に触れた。 「桜はいいな。無条件に幸せな気持ちにさせてくれる」 「うん……」 「どうした、おかしな奴だな」 「いいの。おかしいもん、僕」  鸞が立ち止まると、孔明が不思議そうに振り向いた。 「おまえ、変だぞ」 「いいの。変だもん、僕」 「何だそりゃ」  そうこうするうちに、リヤドロの陶器人形とさえ言われる可憐な顔が曇り、その涙袋もぷっくらとした大きな瞳にこんもりと涙が浮かんだ。 「お、おい」 「……やっぱり無理。いやダメ……兄上、僕ね、僕……」  鸞はもじもじとハーフコートの裾を握りしめて一気に言った。 「兄上が好き」  孔明の顔から笑顔が消えた。  鸞はやはり言わなければ良かったのだと後悔し、ボロボロと涙を流し始めてしまった。  通り過ぎる人から見たら、完全に彼女を泣かせた唐変木の図、である。  孔明が、少し悲し気に目尻を下げ、鸞の頰にそっと手を添えた。 「……鸞、ありがとう。私も、何事にも一生懸命で、決して弱音を吐かない鸞が好きだよ」  いや違う、そうじゃない、そうじゃない方の好きなの! と心でいくら叫んでも、言葉にはならなかった。 「あのね、兄上、あのね……」 「お、あちらの桜はよく咲いているようだな」  わざと話柄を逸らすように遠くの桜を指差す孔明の背中には、鸞にそれ以上の言葉を紡がせない『拒絶』があった。  実は、孔明は鸞のその、そうじゃない方の好き、に随分前から気付いていたのだった。  それだけではない。  鸞が突然武術の稽古に熱を入れ始めたのも、法学部で猛勉強をし始めたのも、警察官を目指し始めたからだと知っていた。  実子である鸞が父の後を継ぐならば、いっそ今、身を引こう……。  ここのところ艶めきが増して、孔明への想いを隠そうとしない鸞に、何度手を伸ばそうとしたかしれない。桜色の頬に触れて、桜色の唇を奪いたい、抱きしめてあの細い首筋に噛み跡を残してしまいたい……物分かりの良い兄貴の仮面には、もう深い亀裂が生じている。  これ以上側にいたら、確実に鸞の気持ちに応えてしまう、ブレーキをかけることを放棄してしまう、何かの拍子に、きっと全てを壊してしまう。  そうなれば、大恩ある桔梗原の父母に背いてしまう。  渦巻く花弁のように千々に乱れ、狼狽える心の内を必死で隠すように、孔明は髪をかきあげて鸞から目を逸らした。   「ちょっと、本屋に行ってくるよ」 「本屋って、何も今じゃなくても……」  そのまま、孔明は鸞の元には帰らなかった。  桜が風に煽られて、全ての花弁が散り去ってしまっても、兄は帰ってこなかった。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

19人が本棚に入れています
本棚に追加