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桜の約束
日当たりの良い毛利庭園の桜は、だいぶ開花が進んでおり、満開に近い状態の木もあった。
誇らしげに咲き乱れる淡い桜色の競合を満喫しながら、鸞はしっかりと孔明の腕に両腕を絡みつけていた。
「おいおい、そんなに強くしがみつかなくても」
「だって、桜の精は美人だから、きっと兄上を連れて行っちゃうもん」
「おまえの方が何百倍も美人だと思うぞ」
「んもぉ、フランスで何覚えてきたんだか」
ぎゅっと腕を絞って頰まで擦り付けた鸞が、27歳になったとは思えない幼さの残る表情でそう言って見上げた。
孔明の目尻が下がる。
7年前、この愛らしい笑顔を中々振り切れずにいた孔明に、鸞は思いがけぬ告白をして、かえって覚悟を決めさせてしまった。
あの一言がなければ、或いはまだズルズルと苦しんでいたかもしれない。
「お前のおかげだ」
「ん? 」
こうして無二の恋人になれたのだから、いっそ清々しいというものだ……孔明は桜の香りを目いっぱい吸い込んだ。鸞がそれを真似る。
そして、鸞が孔明の肩に顔を寄せた。
「兄上、もう良いよね、ここで言っても」
「なんだ」
「大好き。あ、そっちじゃない方の、だよ」
そう告げる鸞を見下ろす孔明は、幸せそうに微笑んでいた。
戸惑いも苦悶もない、ひたすら幸せを隠しきれずダダ漏れになっている30男の笑顔である。
「私もだ、鸞、大好きだよ。そっちじゃない方の、な」
「で、そっちって、どっち? 」
「お前が先に言ったんだろうが」
「もういっか。だって、僕達、こうして一緒に桜を見ているんだもの」
孔明が鸞の細い腰を抱き寄せた。
まさか常識人の兄がこれ以上はすまいと思っていたら、孔明はしっかり鸞のその桜に負けない桜色の唇を吸った。
桜の魔法ではない。
これが、兄の覚悟であり、愛なのだと、鸞は全身でその愛を受け止めた。
「やだ……もぉ、死ぬかと思ったぁ」
唇を離した途端、鸞がガクンと膝を折った。
慌てて腰を支えた孔明が、その愛らしい頰を朱に染めて潤んだ双眸で一心に孔明を見上げる鸞を、そのまま胸に抱き寄せた。
時を経て、今や警察官として揺るぎない立場にいる弟であるが、たとえ力のない一介の教師だとしても、兄として、パートナーとして、いつでも側で見守ってやりたい、それこそが唯一孔明の生きる道なのだ。
一時は見知らぬ土地で死んでも良いとさえ思うほどに苦しんだ事が嘘のように、今は桜の下で臆することなく鸞を抱きしめている。
踏み出してみて初めて見える景色というものが、あるのだと知った。
「来年も来よう。いや、再来年も、その先も、ずっと……」
プロポーズのような熱のこもったセリフに、鸞は咲き誇る桜にも負けぬ晴れやかな笑顔を向けた。
「古典教師なら、もっと気の利いたセリフで口説いて欲しかったなぁ」
そう言いながらも、自分の手よりも大きな孔明の両手を包み込み、その指先にキスをした。
「ずっと、ずぅっと、僕の側にいてください。毎年、ここに桜を見に連れてきてください」
人目も憚らず、孔明は返事の代わりに鸞の頬にキスをした。
「二度と離れない。二度と離さない」
柔らかな桜色が青空の下に溢れている。
二度と、この色彩が褪せることはないだろう。
掌に花弁がひとひら舞い落ちてきた。
両手でそっと包み込んだ鸞は、大切にジャケットのポケットにしまった。
今日の二人の約束の証に……。
花弁 了
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