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とある博物館に夜の王と呼ばれるミイラがあった。彼の本当の名はシャルル・アントワーヌ・エルアルド・ロレンティーニ・フィニアーズ・シュティファンというとにかく長い名前で王であったことは証明できないが貴族だろうというのが大方の予測だ。
その夜の王は特別保存状態のいいミイラだ。肌は弾力があり、色も変色しておらず、関節も硬直していない。ミイラと呼ぶのも申し訳なくなるほどだ。ただ完全に脱力して眠っている。そう形容された夜の王が死んでいないと断定されたのは半年前の大規模調査の時だった。
保存状態がよく、見た目がきれいなままのミイラというのは特別珍しいものではない。古今東西を探せば生前の姿を留めたままのミイラは存在する。不朽体という奇跡もある。エンバーミングと呼ばれる技術が開発され姿を留めたままのものもある。
だから、夜の王もそうしたミイラの一つと考えられ、特別脚光を浴びることはなかった。彼が特別きれいな顔をしていて、豪華な衣装をまとい王冠を頂いていようが、展示品の一つでしかない。神秘のミイラとして海外展示も行われたことがあるが、資料的価値は乏しいと思われていた。
だが、あらゆる科学調査の結果、夜の王は死んでいないと断定された。
本来死者は時間経過とともに柔らかさを失い、腐敗が始まる。湿度が極端に低い環境ではそのままミイラ化することもあるが、基本的には腐敗する。偶然の一致で腐敗が始まらないこともあるが、長い年月が過ぎれば白骨化する。
夜の王はそのどれにも当てはまらない。やわらかさも水分も失われず、腐敗もしていない。なんと体液の流動性が保たれ、自己治癒まで確認された。一日という長期スパンではあるが呼吸と心拍も確認され、もはや生きているといってもいいほどだ。だが、脳波がまったく検出されず、生きているとは断定されなかった。
夜の王は人類には到底想像できない眠りについている。科学者たちはそう結論付けるほかなかった。
夜の王は記録通りなら二百年前に博物館に寄贈されている。その時点でミイラと思われたなら、もっと古い可能性が高い。文献でどうにか同じ名前を発見したのは十四世紀の初頭だった。だが、まとっている衣装は十六世紀中期のもので夜の王は多くの謎をまとったままだ。
学芸員デイジー・ブラウンは彼の本名が記された資料を片っ端から調べたことで一つの仮説を立てた。たまたま同姓同名である可能性も排除しきれないが、彼の名は十一世紀から十三世紀初頭までは断続的に、十四世紀から十六世紀まではほぼ続けて名前を確認できる。十六世紀初頭以降は完全に名前が見つからなくなった。これほど長い期間存在し、今も死んでいないのならば人間ではないのではないか。という仮説だ。
その考えが至極バカげていることは彼女も重々承知だ。誰もが最先端科学の粋ともいえるスマートフォンを持つほど化学が発展した現代であまりにも非科学的すぎる。いくら博物館が科学ばかりでなく、喪われた幻想を見せる場所であっても気の狂った考えとしか言えないだろう。それでも確かめてみずにはいられなかった。
彼の持ち物である小さな金のゴブレットから血液反応が出るのはどうしてか。棺や副葬品は頑なと言えるほど十字架を避けているのはどうしてか。彼の細い顎に対して尖った牙はなんのためなのか。ヴァンパイアと記した後に消された痕跡はなんなのか。
デイジーは閉館後、照明の落とされた展示室で夜の王の展示ケースを開ける。たいていのミイラはホコリやカビの臭いがするが夜の王からはかすかにバラの香りがする。石鹸臭であればまだ理解できるのだがとデイジーは思いながら彼の口をこじ開ける。彼がこの程度のことで起きないのはよく知っている。調査のために丸裸にされても、胃カメラや採血、表皮の採取にレントゲン、MRI、あらゆる調査をされても起きなかった。やはり死んでいると思うのが自然なはずなのに化学は死んでいないと結論付けた。ならば起こせるはずだ。彼女の仮説が正しければ夜の王は今夜、目を覚ます。
「起きてもらうわよ、王様……」
デイジーは手袋を外し、指先に針を突き刺す。痛みよりも高揚感が彼女を支配していた。指を押して血を絞り出し、夜の王の口に垂らす。一度口を閉じさせて変化を待ったが何も変わらない。やはりバカげた仮説だったのだ。もう一度口を開かせて血を拭おうと思ったとき変化に気付いた。まったく血の気のなかった夜の王の頬がほんのり色づいている。
血が足りなかったから起きないのではないか。そう感じたデイジーはさらに数滴の血を飲ませる。夜の王の目がゆっくりと開いた。真っ赤な双眸は血色のようだ。調査の時、水色と記録したはずなのにとデイジーはぼんやり思う。赤い目はうっとりと笑った。
「おお、そなたが我の運命か」
意外と高い声で囁かれてデイジーはハッとする。本当にヴァンパイアだったらしい。呼び覚ますのに成功してしまった。かなり言い回しが古いのも彼が生きていた時代から察するに当然のことだろう。
「運命かどうかは知らないですけど、あなたを管理させていただいていたデイジー・ブラウンです。あなたはシャルル・アントワーヌ・エルアルド・ロレンティーニ・フィニアーズ・シュティファン様でお間違いないですか?」
「いかにも。デイジー嬢、愛らしい名だな。シャルルと呼ぶことを許そう」
シャルルは優雅に起き上がると傍らに置かれていた王冠を乗せるよう指示してきた。彼が王でないにしろ高貴な身分であるなら当然の振る舞いだ。王冠を乗せてやるとシャルルは満足そうに微笑んだ。
「デイジー嬢、予を管理していたといったな。つまりそなたはメイドか?」
「いいえ、学者です」
「おお、うら若き乙女であるに立派なものよ。して、今は西暦何年じゃ?」
長い年月を眠っていた自覚があるらしい。
「二〇二一年です」
「二〇二一年……?」
彼は信じられないという顔をした。流石に想像していなかった年月らしい。
「なんと長く眠り続けたことか……五百余年も過ぎているではないか」
デイジーの仮説とまた一つ一致した。彼が五百年前の人物であるのは確定らしい。それほどの長い年月衣服まで含めてすべて完璧に残ったのは幸運という言葉では言い表せないほどの豪運だ。
「エリザベートの愛が斯様に深かったのだな」
彼は深いため息を吐いた。
「エリザベートというのは?」
「我が妻よ。予を深く愛し、愛するがゆえに狂うていた」
結局彼は眠っていたということでいいらしい。そのエリザベートという妻の愛が深かったがために長い年月隠され、発見時には不気味と博物館に寄贈されてしまったというのが真相のようだ。
「あの、あなたの胸に傷があったんですが、死んでいたっていう可能性は?」
「エリザベートは連れて逝ってくれなかったのであろう……」
彼はそれ以上説明してくれそうになかった。色々複雑らしい。
「まぁよい。盃を持て」
「盃?」
「金色の酒杯だ」
デイジーはそれがゴブレットのことだと思い至り、すぐに展示ケースから出して差し出す。
「ナイフもあったであろう?」
無数の宝石がちりばめられたナイフも彼の副葬品にあった。すぐに取って差し出すとシャルルはデイジーの手を取る。戸惑っていると赤い目でじっと見つめられた。その目はどこか悲しげでミステリアスだ。
「予は飢えている。ゆえにそなたの血で潤してほしいのだ」
「えーと、それってどれくらい? 私死にます?」
「この盃を満たすだけでよい」
想像以上に少しでいいらしい。採血と思えばいい量だが、どうやって注げというのだろう。
「傷は残さぬゆえ、心安んじて身を委ねよ」
彼はナイフを抜き放った。それで少し切られるらしいと察した。逃げようと思えば逃げられそうな気もするが、起こしてしまった以上最後まで付き合うべきだということもわかっている。
「できるだけ痛くなくしてください」
「乙女の顔が苦痛に歪むのは好ましくない」
結構話が分かるタイプらしい。手首に当てられたナイフはひんやりしていた。すっと引かれると血が流れだしたが、刃が薄かったせいか痛みはほとんどなかった。彼はゴブレットで彼女の血を受ける。
「ヴァンパイアって直接飲むイメージだったんですけど」
「予は野蛮ではない」
気に障ったのか声が冷たかった。直接血を啜るのは彼にとって野蛮であるらしい。
「必要なだけ貰い受け、殺さぬ。予は王たる威厳を失うことはない」
「やっぱり王様だったんですか?」
「人であった頃はな」
ゴブレットが満たされると彼は傷をすぅっとなぞった。血は止まり、傷も消えた。やはり普通ではないらしい。
「いただこう」
彼は優雅な仕草でゴブレットを掲げ、両手でもって口に運んだ。彼の小さな顔が手とゴブレットでほとんど隠れる独特のしぐさで、それが彼にとって一つの儀式であるかのように見えた。ゴブレットを返して来た彼はふと息をついた。顔色が明らかによくなり、赤かった目は水色に変わっていた。先ほどまで赤かったのは血が足りなかったせいなのだろうか。
「そなた、食事をおろそかにしておるな。味が薄い」
まさかのクレームに思わず吹き出す。自分の血の味など考えたこともなかった。
「実によろしくない。豊満であれとは言わぬが痩せすぎだ。よく食べ、よく眠り、よく運動せよ。さすれば芳醇なワインのごとき血になるであろう」
ヴァンパイアに健康指導をされるというまさかの状況にデイジーは笑いが止まらなくなりそうだった。だが、彼の冷ややかな視線に笑うのをやめる。王だったというだけあって迫力が違う。
「気を付けます。ところでヴァンパイアって陽の光に当たると死んでしまうって本当ですか?」
「左様。灰燼に帰すが定め。今日まで体が残ったは幸運よ。して、ここはどこぞ? 我が城にも、エリザベートの館にも見えぬが」
彼は室内をゆっくりと見まわす。彼が戸惑うのも当然だ。何もかもが彼の時代にはなかったもので、彼の持ち物はケースの中に飾られている。
「ここは博物館です。歴史の遺物を展示する場所なんです。わかります?」
「博物館……ふむ、ローマにあると聞く」
「ローマではないんですけどね。今では世界中のあちこちにあります」
「左様か。つまり予は展示され、見世物にされておったのか?」
意外と飲み込みが早い。百年単位で眠るのは初めてではないのだろうか。彼の名前が出てこない空白期間は同じように眠っていたのかもしれない。
「そうです。あなたはミイラと勘違いされて二百年前にシャルレー城からここへ柩ごと寄贈されました」
「なるほど、ミイラと……もう少し麗しい呼称であればよかったに」
「あ、みんな夜の王って呼んでたので、麗しいんじゃないかなって……」
「夜の王、よい響きだ」
彼は口元を隠してくすくす笑う。気に入ってくれたらしい。
「そなた柩と言ったか?」
「はい、あちらに展示してある黒い柩です」
黒塗りで当初は金の装飾もあったのではないかといわれる優美な柩だ。内部はビロードとレースで装飾された豪華なもので、当時としてはかなり特殊だった。地中に埋められた形跡もない。
彼は柩のレースをしげしげと見つめ、悲しそうにため息を吐いた。
「エリザベート、ここまで予のためにしてくれたのに、なにゆえ……」
彼は彼女に殺されたかったのだろうか。それとも長すぎる生にうんざりしているのだろうか。
「どうしてエリザベートさんが作ったってわかるんですか?」
「わかるとも……彼女は予が余人の目に触れるのを至極嫌い、予を一室に閉じ込めた。それほど予を愛した彼女が予の肌に触れるものを余人に作らせるはずがない。それにここに彼女の癖が出ておる」
目を凝らして見てもさっぱりわからなかったが、彼にはわかる何かがあるらしい。エリザベートは独占欲の強い女性だったのだろう。彼はそんな彼女の愛も愛でていたようだ。ヴァンパイアもそのパートナーも普通ではないのかもしれない。
「あの、シャルルはいつから生きているんですか?」
「およそ、九八五年より生きておる。いや、一〇〇三年に一度死んでおるからして、一〇〇五年よりであろうな」
聞きたいことが多すぎて訳がわからなくなりそうだ。
「えーとちょっと待ってください? 一回死んでるんですか?」
「左様。我が母と魔術師が予を諦めきれず、蘇生させた結果が予という化け物だ。老いもせぬ、死にもせぬ。口にできるのは目覚めさせたものの血だけ……」
思ったより複雑な成り立ちをしているらしい。二年ブランクがあるのも蘇らせるために手間取ったと考えるのが自然だろう。つまり彼は十八歳で亡くなり、そのままの姿を留めているらしい。若年の王が屠られるのはそれほど珍しいことではない。その時点では歴史の闇に消えていったのだろう。だから記録がないのだ。それ以降の彼は偶然パーティーに居合わせたとでもいうようなところで名が記録されたのだろう。
「蘇るべきではなかった。だが、自らこの身を捨てることができぬまま、ついに千年の時を超えてしもうた。デイジー嬢、なにゆえ予を起こしたのだ?」
「好奇心以外に説明できる言葉がないです」
「素直でよいことよ」
シャルルはころころと笑った。
「して、好奇心は満たされたか?」
「はい」
「よいことよ。予はこの後どうしたらよい?」
勝手に出て行かれたら困るとは思っていたが、その気はないらしい。口にできるのが呼び起こしたものの血だけと彼は言った。だからデイジーのそばから離れる気がないのだろう。
「えっと、そうですね、人のいる時間はこれまで通りここで寝ていてもらえると助かります」
「ふむ、承知した」
予想を超える物分かりの良さに肩透かしを食らったようだ。
「承知しちゃっていいんですか?」
「その時代に合わせるため、呼び起こしたものの言うことを第一義としておる。今の予は王ではない。いくら化け物に成り果てようと糾弾や討伐の憂き目には遭いたくないのだ」
言っていることは理にかなっている。尊大なようでいて強かに長い年月を生きてきたのだろう。
「今の予は夜の王。死ぬも生きるもそなたの自由。眠るは飽いた」
五百年も眠っていたら飽きもするだろう。
「私が死ねって言ったら死ぬんですか?」
「左様。そなたの血がなくば生きられぬゆえな」
「なるほど。じゃあ、さっき言った通り日中はこれまで通りここで寝ててください。それ以外はこれから考えるので」
「ふむ。承知した。今宵はここを案内せよ」
「わかりました」
各部屋を案内して回ると彼は感心したような声を上げたり、懐かしんだりした。記録に合った通りの時代の記憶を彼は留めているようだ。
「あの、さっきから聞いてると何人も奥方がいたようですけど?」
「時代ごとにな。目覚めさせたものを妻としてきた。ゆえにそなたも候補である」
「ご飯のついでみたいで嫌なんですけど」
シャルルはころころと笑ったが、目が笑っていなかった。まだ話してくれていないだけで何かあるのだろう。
「無理強いはせぬ。だが、好奇心で起こした以上、付きおうてもらうぞ」
「それはもちろん付き合います」
デイジーは漏れそうになったあくびをかみ殺す。もうすでに十二時近い。
「おお、夜更かしは玉の肌に毒ぞ。早う帰って寝るがよい。予は勝手に戻るゆえ」
「そうしてくれると助かります。展示ケースは朝閉めにくるので」
「承知した」
彼は美容の心配もしてくれるらしい。ヴァンパイアといえば夜の世界に引きずり込んでくるものと思っていたが、彼は違うようだ。それぞれの時代に妻がいたということは妻たちは不死ではなかったということだろう。妻が死ぬと眠りにつき、次に起こしたものが妻になっていたのかもしれない。
よく知られているヴァンパイアとはだいぶ異なっているようだ。ヴァンパイアの伝説が作られる年代よりもずっと前から彼は存在しているから一概にヴァンパイアというのもおかしいのかもしれない。
このまま行くと次の妻はデイジーだ。別に恋人がいるわけではないがヴァンパイアの伴侶になりたいわけでもない。ほかの学芸員には彼が起きたことを伝えた方がいいのかもしれない。
そんなことを考えながら帰宅し、ベッドに入った。
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