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第弐話 初めてナンパされたけど嬉しくない
かんかんと音を立てて古びた木造アパートの階段を上る。それから家の鍵を開けた途端に樒の臭いが鼻を衝いた。今日もどうやら奴は実家に帰っていないらしい。
「おかえりー」
「……まだ帰ってなかったの?」
「えー。だって実家の場所も分かんねぇし」
「いいから帰れよ。おふくろさん、泣いて喜ぶぞ」
大学の授業から自宅に帰ると、当たり前のように腐った躰のあいつが居た。
まったく図太い奴だ。人の家の漫画を勝手に読み耽って、勝手に冷蔵庫のアイスまで食ってやがる。外をうろついて部屋に出入りする現場を他の人に見られるよりかはマシだが、少しは遠慮しろよ。
「なぁなぁ、そういや亥唐ってさぁ」
「……何だよ」
「彼女とか作んねぇの?」
「うるせぇな、作れねぇんだよ」
「ふぅん。じゃあさ、じゃあさ。ナンパしに行こ!」
「……正気か?」
がさがさと近所のスーパーで買い占めた日用品や食材を冷蔵庫にしまいながら、嘆息する。それにも構わず奴がずりずりと這っては「暇だしさぁ」と足首にしがみ付いて見上げてきた。ここ数日で僕の家に居座り、どういう訳か出会った頃よりかは肌艶が良くなった様子がまた腹立たしい。
でも、邪魔だということで片目を斬り落としてぽっかりとした眼窩は、未だに怖いものがあった。ちょっとしたホラーだ。普通の人間からすればホラー以外の何でもないだろう。蛆は風呂で全部僕がおしぼりで払い落したからもういないけど。
あの面接があった日から乍原は「今日だけ泊めてよ」と上がり込み、堂々と我が家に居候を決め込んできたのだ。
居候するのは構わないが、と条件をつける。それは僕の許可なしに勝手に外へ出ないこと。こんなのがふらふらと出歩いていたら一緒にいる僕まで変人扱いされて、苦労して入った大学も退学になるかもしれない。そう言うと、乍原はつまらなさそうに「へーい」と気の抜けた返事だったが了承してくれた。それでも元々僕と違ってアウトドア派だから退屈そうだったけど。
「……嫌に決まってんだろ。大体お前その手で相手に触れてみろ。捥がれるぞ」
「やだ! それはヤだ!!」
「あと日光も浴びたらダメなんだろ」
「うん。溶けちゃう」
「お前なぁ。今までどうやって過ごしてたんだよ」
「高架下でホームレスのおっちゃんと居たー」
「……まぁ、分からんでもない」
ばたんと冷蔵庫の扉を閉めて、未だにしがみつく乍原を振り払った。乱暴に動く足から乍原が「あぁん」と気色の悪い声で剥がれる。
「あーあ。亥唐は怖がらなくってつまんねぇの」
「昔からお前みたいなのは見えてたし」
「えー、なになに。お寺の息子はユーレイが視えちゃうって?」
「お前には言ってなかったけどな」
「なんで、なんでー?」
「言ったら絶対に肝試ししようって言うだろ、中坊のお前は」
「だって面白いじゃん」
「だから言わなかったんだよ」
居間に入って散らかった漫画を片付ける後ろで暇を持て余した乍原が、とてとてと後ろをついてくる。待ても出来ない子どもか。鬱陶しい。
ふと閉じられたカーテンに目を遣り、少しだけ開けてみる。窓の外には雲の切れ間から夕陽が顔を覗かせ、黄昏時に真っ黒な烏の群れが窓の端から端へと流れていた。壁に掛けた時計に視線を移すと、時計の針は垂直になっている。
もうこんな時間か。
「なぁなぁ。どっか外で食おうぜ。じっとしすぎてカビ生えそー」
「ファブリーズならそこにあるぞ」
「ばか、オレはファブ嫌いって何回も言ってるだろ!」
「だからだよ」
「亥唐の性悪、バカ、あんぽんたん!!」
「……お前、中学から何にも変わってないよなぁ」
「んー? お前も変わってないよ」
「うるせぇな。……身長は伸びただろ」
「そんならオレだって伸びたもんね!」
「あー、はいはい」
もう相手にするのも面倒で適当に返事をすると、乍原はむくれたように「オレの方が声変わりは早かったし」などとぼやく。
たしかに、こいつは中学に出会った頃とあまり変わらない。こういう子どもっぽい所や、あっけらかんとした明るい性格や物事を深く考えない所なんてもう少し変化があっても良いんじゃなかろうかとも思う。でも、こいつの時間は僅か二十年足らずで止まってしまったんだ。
夕陽が差し込む室内で手にした漫画をぱらぱらと捲る。内容は死んでしまった人間があの世の門の前に居た女性に「絶対に地獄に往く」という条件付きで現世に蘇らせてくれるというものだ。もしかすればこいつも似たような境遇で、真っ先に僕へ会いに来てくれたのかもしれない。
中学時代は毎日つるんで遊んでいた、僕の元に。
「……外、食いに行くか」
「えっ!!」
ふと感傷に浸って呟くと、部屋の隅で膝を抱えながらごろごろと転がっていた奴が目を瞠るほどの瞬発力で飛び上がる。それからドタドタと足音を立てながら僕の足元まで来ると、散歩中の犬のように嬉しそうな顔で「やったぁ!」と笑った。
◇◇◇
「亥唐、カレー! カレーにしよ!!」
数時間前の自分を張り倒したい。暴力的な衝動に駆られるように、手にしたお冷やをガンと振り下ろす。でもその音に臆することの無い奴は「カレー、カレーだぁ!!」とメニュー表をぶんぶんと振って呼び鈴を連打しかけた。
近くの暗い喫茶店なら目立たないだろうと連れてきたのが、あまり意味がなかったかもしれない。せめてものと変装用にフードを被せてパーカーを着させたが、奴はフードが取れそうな勢いで席を座ったまま跳ねていた。ぴょこぴょことフードが浮いて、「なぁなぁ、若い姉ちゃんはいつ来る?!」とませた子どものようにはしゃいでいる。
外はとっぷりと日は沈み、窓際席からは通りにある街灯がちかちかと明滅している様子が見える。近くにはコンビニもないから、滅多に人が通らないことでお馴染みだった。
「いい、から、落ち、着け!」
がしりと乍原の頭を上から抑え込んで、席に座らせる。
「黙って、早く、カレーを食え!」
「だってまだ来てねぇじゃん」
「お前は今年でいくつになった?」
「はたちー!」
「二十歳が騒ぐな、迷惑だろ!!」
「すいませーん、ビールありますかー?」
「聞け!!」
ちらりと店内を見回すと、狭い店内だが四人掛けが三席と、カウンター席には中年男性が二組が座っている。いずれも満席だった。間接照明なんて洒落たものは無く、古めかしい電球が裸で吊り下げられ、座席の座布団はあちこちが破けて綿が出ている。お世辞にも綺麗な店とは言い難いが、お客は入るのだ。それを、こいつはものともしないで大声で騒ぎたてている。
この店の視線はお前が独占してんだっての。気付けよ。
「お待たせしました、カレードリアと、オムライスになります」
くすくすと控えめに笑った中年女性が湯気の昇る料理を二皿をそっと置いて去ってしまう。乍原は「待ってましたー!」と店内に響き渡る大声で叫ぶと、瞬時にスプーンとフォークを握り締める。ぐー握りだ。赤子か、お前は。
ぱん、と大きな音で大きな赤子が合掌すると「いただきます」と一心不乱に食べ始める。まるで飢えた犬みたいだ。愛嬌のある大型犬かな。
「ふぉい、ふぉい、ひほぉ」
「食べながら言うなよ、飛ぶだろ」
「ふぉへ、あいひゅも!」
「一人一品までだ」
「ひぇー」
がちゃがちゃと騒がしく食事をする乍原に、ふと疑問が浮かんだ。そういやこいつ、食べたものって消化できるんだろうか。居候といえど、僕がご飯を食べるときはコイツはふらっとどこかに行ったりするし、寝っぱなしの日だってあった。風呂だって湯船に浸かるのではなく、おしぼりで躰を拭かせるという何とも爺くさい行為だ。介護か。
はぐはぐとカレーをむさぼる乍原を凝視する。すると、そこで小さくぼたぼたと何かが零れる音が聞こえてきた。
ぼた、ぼた。ぼたぼたぼた。そこそこ重量があり断続的に聞こえる音に、何とはなしにひょいと音の出所を探ろうと机の下に顔を遣り、げっと呻く。
「おっ、……まえ……!!」
落ちている。あつあつのカレードリアが、ぼたぼたと。カレーの上に乗っていたチーズが糸を引きながら乍原の腹にある傷口から、染み出るように。売価894円というこの店で一番高額な料理を、惜しげも無くぼろぼろと。貧乏な一人暮らしの学生には、命にも優る値段の代物を、こいつは。
「おい、おい、乍原ぁ!!」
「んふぇ?」
「お前ふざけんなよ!!」
「んぉ」
きょとんと間抜けな面を晒す乍原が、スプーンを銜えたまま僕を見る。僕は慌てて乍原の頬を両手で掴み、「食えないなら食えないって言え!」と力の限り引っ張る。「ひひゃい、ひひゃい」と乍原が哭き喚く。あちらこちらでざわめく声。その最中。
「すみません」
凛とした声が頭上から降ってくる。横目で見上げる乍原につられて見上げると、そこには肩までかかる白髪を綺麗に流した女性が立っていた。
「こちら、相席しても?」
すうと細められた目は涼しげで、薄い口からは冷ややかな笑みも浮かんでいる。目鼻立ちも整っていて、ゾクリとするほどの美人だ。着ている服もどこかの館のメイドのような出で立ちで、この人が着るとよく様になっていた。
僕は自分とこの人が同い年だということを知っている。そして。
「いいよ、いいよー! な、亥唐、いいよな!!」
鼻息荒く返事をする乍原とは裏腹に、僕はさっと青褪める。乍原が僕の異変に気が付き、「どうしたー」と間抜けな声で僕を覗き込んだ。それが鬱陶しくて片手で押し遣り、震える声を絞り出す。
「……阿伽奇(あかき)さん」
それは、大学内でも異端児と名高い同年の女性だった。
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