夢火傷

1/1
前へ
/1ページ
次へ
夢火傷  四月。出会いの嵐吹き荒れるこの季節に、俺は内定を貰った会社から半日で逃げ出した。  理由は初日の挨拶で舌を噛んだうえに、何もない所で転んで持っていた資料をぶちまけ、上司に「お前、初日からトばしてるな」と笑いものにされたからである。同期からもクスクスと失笑が飛んだ。気取った社員から、「ドジっ子くん」というあだ名を付けられ、また笑われた。  頭に血が上った。俺はお前の笑い取りの道具じゃない。腹が立って、不安で、そこにいるのが恐ろしくなって、やけに綺麗なトイレで昼飯の菓子パンを吐き散らした。  それからすぐ、「体調が悪いのでもう帰ります。明日もわからないのでこちらから連絡します」とだけ告げて足早に会社から去る。会社からの電話は全部着信拒否にした。不快で、不愉快な一日だった。皆死んでしまえと、道端で絶叫しようかと思った。  睡眠薬と安定剤を合わせて七錠胃に流し込んで、布団でぐっすり眠って起きて見ると、窓から差し込む温かな春の日差しに眩暈がする。  無職になった。親にはまだ言っていない。両親は俺にほとほと無関心であるから、そんなに急ぐことでもないと思っている。内定を決めるまでに何十社も落ちて、辿り着いた先で笑われものにされたなんて、思い出す度に悔しくて恥ずかしいのだ。親に、「ミスを笑われたから勢いで会社を辞めた」なんて言うのはあまりに屈辱過ぎる。  だから、俺はしばらく一人で気ままに過ごすことにした。春の温かな陽気を浴びて伸び伸びとしようと。いっそ、新しい趣味でも始めて見ようか? そんなことを考える。だが、俺には貯金もほとんどない。新しい仕事を探さなければという不安が押し寄せる。春の青空に似合わない憂鬱が、俺の肉体と脳みそを蝕んでいった。  無職になって数日。俺は昼間の時間を眠って過ごすようになった。起きてパソコンをいじってネットサーフィンに明け暮れていると、どうしようもない眠気が襲ってくるのだ。たまらず布団に潜ると、三時間は寝てしまう。気づいたら夕方の時間になって途方に暮れて、適当に外食をして風呂にも入らずまた薬を飲んで寝る。最初は、それだけだった。  昼寝を毎日繰り返しいくうちに、俺はある夢を見るようになった。それは「夢の中を無限ループをする夢」だ。  起きても、起きても、夢の中。何度起きたと思っても、夢の中なのだ。早くここから出なければ、という焦燥感があるのに中々夢の中から出られない。夢が醒めない。  インターネットでその事について調べて見ると、無限ループする夢はどうやら一部では「無限夢」として有名らしい。そこから無限夢の対処法を色々探した。  その中に「じっとしていれば醒める」という解決法を見出す人間がいた。確かに、夢の中では何度も焦って起きようとしてループが生まれてしまう。だから、じっとしていればそのうち醒めるのではないか。そう思って、次に無限夢に入った時はそうすることにした。  それからすぐ、俺は昼間の強い眠気に襲われベッドに倒れ込んで夢を見た。 何回も目まぐるしく場面が変わった後、ぱっと目を開く。すると、マーブル模様に歪んだ天井が目に入る。目線だけで部屋を見渡すと、家具も乱雑に置かれた服も、何もかもが奇妙に歪んでいた。  すぐにわかった。ここは、現実ではないと。まだ、夢の中なんだ。また、「無限夢」に入ってしまった。ここからが長い。いつもだったら、俺は夢の中から目覚めなければと焦り、飛び起きようとすると視界が霞んで、また布団に戻されるというループが始まる。だが、俺は確実な意識で「このままじっとしていよう」と考える。このままじっとしていれば、夢から醒めるはず。信じていた。  ……だが、一向に夢は醒めない。視界に映る風景は歪んだままだ。不安と恐怖が身体を包み始める。もう、いつものように起きるしかない。そう思った。 意を決して起き上がってみると、身体思ったよりも軽かった。いつもの気怠さがない。ふわふわと身体浮いているような感覚に違和感を覚えながら、俺はゆっくりとベッドから降りる。  まだ、ベッドに引き戻されない。ループしない。でも、夢から醒める事も出来ない。こんなのはおかしい。俺は、夢に食われてしまったのか? どうしたらいいのかもわからず、項垂れる。  すると、突然部屋の引き戸の向こう側から楽しそうな笑い声が聞こえた。誰かが、いる。俺はそのままきょろきょろと辺りを見回して、部屋の引き戸に震える手を伸ばした。隙間だけ開けて、様子を窺おうと思った。 だがしかし、力の加減が馬鹿になったみたいに引き戸はスパーンと音を立てて豪快に開いた。 「……!」  俺は、引き戸の向こう側に広がる景色に目を丸くする。  そこにあったのは、かつて存在していた祖父母の家の居間だった。畳に低い机、茶色の年季の入った箪笥にもう使えない黒電話。配置はどれも、俺が子供の頃見ていた祖父母の家のままだった。  そして、更に驚いたのは……中央に置かれた机で、若い女性と青年が楽しそうに談笑している姿があったからだ。その二人には、かなり見覚えがあった。 若い女性の方は、昔の母の姿だ。俺が子供の頃、アルバムで見た母の姿。艶のある長い黒髪と、アーモンド形の気の強そうな瞳の若々しい母に、俺は酷く胸を打たれたものだった。  一方の若い青年は、俺が高校の頃に絶縁した幼馴染で親友のハヤトだ。原因は些細なものだった。俺がハヤトの当時の彼女に浮気を持ち掛けられたがきっかけだ。俺は勿論断ったのだけれど、ハヤトは俺と彼女を許さないと怒鳴りつけ、それっきり顔を合わせても無視を決め込まれた。卒業後はそれっきり、連絡も取らなくなった。酷い別れに、当時は落ち込んだものだ。 ハヤトの事は、絶縁した当時はよく夢に見ていた。いつもいつも、俺とハヤトが仲直りをする夢。最近は無限夢ばかり見ている所為でハヤトの夢は見なかったのだが、まさかこんな所に現れるなんて。  若い母と、絶縁した親友。不思議な二人の組み合わせに呆然としていると、ハヤトが俺の存在に気づいて軽く手をあげた。 「おう、遅かったな」  ハヤトが気さくに笑う。それだけでも、涙が出そうになった。すると今後は、若い母が整った顔立ちを嬉しそうに変えて笑う。 「あら、やっとお見えになったのね。さあ、こちらへ来て下さいな」  俺は母に言われるがまま、机の傍に座った。母とハヤトの顔を改めて見る。夢とは思えないリアリティのある作りだ。こんな夢は初めてである。 「どうしたんだ、元気がないじゃないか」  ハヤトが不思議そうな顔をする。俺は突然話しかけられて当惑し、俯いた。まるで恥ずかしがっているようだった。 「あの……ここは、夢、ですよね?」  俺が言えたのはその位だった。まだ夢の中の延長線にいる事は確かなのだ。それに、若かりし頃の母やハヤトがいる時点でおかしいのである。すると、母が言った。 「ええ、そうですわ。ここは夢。夢の世界です」  母の微笑みに、俺は更に言う。 「何故、俺は現実に帰れないのですか?」 「それは、貴方が本当は現実に帰る事を拒んでいるからです。無限夢は、貴方自身が呼び寄せたものなのですよ」 「そ、そんな……俺は夢から醒めたいんです!」  そう言うと、ハヤトが笑った。 「なんだよ、お前いつも口癖で言っていただろう? 『帰りたい』ってさ」  ハヤトの言った意味がわからなかった。確かに、俺の口癖は「帰りたい」だ。それは染み付いた習慣みたいなもので、家にいても「帰りたい」と呟いてしまう。どうにもならない悪い癖だ。でも、俺は「夢の中に帰りたい」と思って呟いたわけじゃない。 「夢は『第二の故郷』なのです。だから、貴方は現実でも無意識に夢の中に帰りたがっていたんですわ。だからいつも眠くなり、無限夢を見る」 「そんなのデタラメだ!」  叫んだのに、声が上手く出せない。俺は汗ばむ喉元を手で押さえながら二人を見つめる。二人は依然として微笑んだままだ。 「デタラメなんかじゃあないさ。だって、今だって夢からお前は醒めないじゃないか」 「それは、目覚めたくても目覚められないからで!」 「違いますわ。貴方の肉体、脳、全てが目覚めるのを拒否しているのです。だから、目が覚めないの」  俺はこんなに必死に夢から抜け出そうとしているというのに、その俺が「目覚めたくないから夢から抜け出せない」だって? この二人の言っている事は間違っている。俺は今にだって現実に飛び出したい。その筈なんだ。 「あとはね、貴方の心の決心さえつけばいいの。まだ、貴方の心は現実を忘れられないでいる。しがみ付こうとしているんだわ」  まるであたかも夢の中の方が正しいかのような言い方に、頭の中が混乱する。俺が頭を抱えると、ハヤトが俺の傍に移動し、肩を抱いた。 「お前、毎日が辛いんだろう? なら、いいじゃないか。無限夢には、お前が辛い事なんて何一つないんだぜ。俺達がいつも傍にいて、お前を守ってやるんだ」  囁きが身体を支配する。すると、今度は母も傍に来て俺の手を取った。 「そうよ。貴方の事は私達が守るわ。だから、安心してこちらにいらっしゃい」  母の穏やかな声。優しい微笑に、ついに俺の瞳から涙が零れた。こんな風に、愛しい人から話しかけられたのは初めてだった。俺の知る母は曖昧な笑みに冷たい無関心な瞳ばかりしていて、こんな風に声を掛けてくる事もほとんどなかった。ハヤトだって、最後に面と向かって見た顔は怒りに満ちた顔だった。こんなに、愛おしそうに肩を抱いてくれることはなかった。  二人共、俺の理想の存在だった。俺が求めていたものの全てだった。夢の中なら、二人がいてくれる。俺は孤独ではない。くすんだゴミ屋敷で埋もれていなくたっていいんだ。 俺は……。 ****    ジリリ! けたたましいアラームで目が覚める。布団から飛び起きて見ると、時刻は再び夕方を指し示していた。これからもう一寝入りすれば、あの二人に会えるだろうか? そう思って横になる。だが、一睡も出来なかった。  母とハヤトに出会った夢を見てから、俺は無限夢をあまり見なくなった。あの夢から、遠ざかってしまったんだ。 俺は絶望した。どうしてあの時、彼らの言葉をしっかり聞かなかったのだろう。夢の中の幻だったとしても、彼らを信用すべきだった。そうすれば、俺は夕闇の中に沈むアパートメントで孤独に震えなくて済んだのに。 あれからアルバイトも決まらず、ただ胸糞が悪いニュースに落ち込んでは適当に毎日を暮らしてまっている俺にとっては、確かに夢の世界の中の方が幸せなのかもしれない。 彼女達は言っていた。夢は第二の故郷だと。なら里帰りしたって、誰も怒りやしないんじゃないのか。あの時心を決めていたらどうなったんだろう。それを毎日考えている。 「帰りてえな……」  呟く。夢の中に、帰りたい。あのケロイドの様な不思議な世界に。あの世界であれば、俺を受け入れてくれるだろう。俺が、俺である事を証明してくれるだろう。  その日のうちに、俺は第二の故郷へ旅立つ準備をした。薬をあるだけ飲んで、長めの電源コードを搔き集めて縄を作った。作って結んだ縄をドアにひっかけて、その隙間に自分の頭を滑り込ませる。縄が自分の首に食い込みやや息苦しい。だが、既に薬が効いているのでさほど苦ではない。  これは、第二の故郷に旅立つための儀式なのだ。俺は静かに目を閉じて、ドアに身体を預ける。重くなる身体に、締まる首筋。  意識が飛ぶ間、俺の耳には色んな雑音がボリュームが滅茶苦茶になって聞こえていた。近所の子供の笑い声、車の音、工事現場の戦慄き、時計の針の音。俺の周りを囲んでカゴメ遊びを始めている。愉快で、気持ちが悪い。  静かに、意識を失っていく。でも、これできっと俺は帰れる。第二の故郷に。嬉しくて、ニヤリと微笑んだ。  さようなら、さようなら、不愉快な世界。俺は第二の故郷に帰ります。    ****  次に目が覚めると、くすんだ白い天井が見えた。ゆっくり眼球を動かすと、ライムグリーンのカーテンに辺りが囲まれている。  俺は夢の世界に帰れたのだろうか。ここが、俺の夢なのか。でも、若い母もハヤトの姿もない。ここは何処なんだろう。  ふいに、手元が温かいことに気づく。手元を見ると、誰かが俺の手を握っていた。この人は。 「……ユウイチ……」  か細い声にやつれた顔のその女性は、夢の中で見た若いころの母に似ていた。この女性は俺の母なのだろうか。わからない。でも、確かにわかるのは、ここが現実であるという事だ。夢のケロイドに、俺はなり損ねてしまったのだろう。妙にずっしりとした身体の重みが酷く不快だ。早く、ここから出なければいけない。 「帰りたい、帰りたい、帰りたい」  自分の声ではないような声が言う。もう帰りたい。ハヤトや母の元へ。  きっと俺は、また起きられない夢をループしているのだ。きっと今も、ループの最中なのだ。だから、ハヤトと母に会えないのだ。なら、早く起きなければ。こんな夢から醒めなければ。  急ぎたくても、身体が思うように動かない。夢の中だから、身体が思うように動かないのだろう。畜生、と舌打ちをしたくなった。早くここから出たくて仕方がない。俺は焦り始めた。  すすり泣く声がする。女性が泣いているのだ。呻き、苦しむその姿に俺は恐怖した。なんて、悪夢なんだろう。こんな夢の中に閉じ込められるなんて。一刻も早く、目覚めてあの二人の場所へ行かなければならない。  唸り声をあげ、叫び、「ここから出してくれ」と喚いた。見知らぬ顔の人達が俺を囲んでいく。これも全部夢なんだ。俺を夢から出さない為の策略なんだ。騙されない、騙されない。  脳裏には、二人の姿が浮かんでいた。俺の愛しの世界で微笑む二人が。  俺は戦う。この世界から抜け出すために。かならず起きてやるんだ。この夢の世界から。  第二の故郷は、きっともうすぐそこにある。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加