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ワイシャツはべったりと肌にはりつき、さらに冷たい。全身ずぶ濡れなわけだから、日向にいたところで寒いものは寒い。
おっさんが着ていた春物のコートを頭からすっぽりかぶって、ベンチでがたがたと震えていた。そのコートの持ち主が、袋をいくつか抱えて遠くから走ってくるのが見えた。
「ごめんごめん、待った?」
「おせーよ」
恋人の待ちあわせじゃあるまいし、と心で毒づくとおっさんの持っていた袋を全部乱暴に引き取った。
近くに総合商業施設があるから、そこで揃えてきたのだろう。中を開けると、灰色の上下のスウェットと、赤くて派手な柄のトランクス、安そうなスニーカー、やたらと大きいバスタオルが出てきた。
「だっさ、パジャマかよ」
背に腹は代えられない。人目も気にしてる場合じゃない。その場でワイシャツもズボンも脱ぎ捨てて、急いでおっさんセレクトコーディネートに身を包んだ。さすがに下着を替える時は、タオルで人目をはばかったが。常温の生地がじんわりと肌に伝わった。
「これ…」
おっさんはおずおずと缶コーヒーを差し出してきた。あったかい! ちったあ気がきくじゃねーか、と奪い取ったが、すぐに飲む気にはならず、両手で包んでその小さな温もりを噛み締めた。
おっさんに湿ったコートを返し、代わりにバスタオルをかぶると、濡れてない部分を選んでベンチにまた腰掛けた。
「何か…ごめんね?」
俺が脱ぎ捨てた服をたたみながら、空いた袋に入れている。よくよく見ると、おっさんは第一印象のときよりはおっさんではなかった。顔には深い皺が刻まれてるものの、かつてイケメンだった面影がある。髪は手入れされているし、シンプルなコーデュロイのシャツと細身のジーンズは意外としっくりきていた。腕時計も靴も、そこそこいいものをつけている。
「…何で柵を乗り越えたの」
えっ、と驚いた顔を見せたおっさんは、胸のポケットから小さく折りたたまれた何かの紙を出した。
離婚届だった。
ドラマでしか見たことがない俺は幸せなのだろうか。いや、そもそも結婚すらしてねーし、最近ふられたし。
「今月ツイてなくてね、競馬もスロットもロトもはずしちゃって、滞納してる家賃とか友達から借りてる金とかどうしようと思ってたら別居してる妻からこれが送られてくるし、で、そしたらそこにさ、その柵越えた池のとこ、百円玉が落ちてたからさあ」
「こうはなりたくねー」
思わず口から出た。しょーもなさすぎるし自業自得すぎるし。
「これはツイてるって思って、この百円で再起をかけようと思ったんだよねえ」
「おかげで善良な一般人の俺が再起不能なんですけど?」
「いやあ、僕が自殺すると思ったの? ここの池、浅いよ?」
「死んだらよかったのに」
無邪気に笑うおっさんに、本音がもれる。自分は初対面の相手にこんな物言いをするような人間ではない、と思っていたが、どうやら違っていたようだ。
「あー、やべー、先輩に連絡…」
先程のダイブでスマホは水没した。画面は暗い。乾いたらワンチャン復活するかもしれないが、今はそれを確認するのも怖い。とっくに昼休憩は終わってるし、おそらく職場からは鬼電が入ってることだろう。連絡を入れようにも、連絡先は全部スマホの中だ。文字通り、頭を抱えた。
「いやあ、僕もきみにプレゼントしたからすっからかんだよ、お金ないのに、あはは」
「こっちは紛らわしいあんたのせいで、服も革靴もスマホも職も信用も失うとこなんだけど」
「あー、足りない? でも今はもうこれしか持ってなくてさあ」
おっさんは俺の目の前に、名刺のようなものを差し出した。
「何これ、うん…指名料無料?」
「僕、そこの通り沿いにある美容室で美容師やってるんだー、よかったら切るよ?」
「何どさくさに紛れてちゃっかり顧客にしようとしてんだよ、しかもけちくせー」
しかもそこの通り沿いって、自分の職場の近くじゃないか。高見坂、圭。それがこのおっさんの名前だった。
「わかった、じゃあさ、明日土曜だし、昼の1時にここで待ちあわせしよ」
「はあ?」
「この濡れた服、特急でクリーニング出して、革靴も新しいの買って、お詫びの品を渡してあげるからさ、亮也くん」
自分の名前を不意に呼ばれて、にこにこしてるおっさんと視線が合った。
「さっき服をたたんでたときに、財布に名刺あったんだよねー、きみと思しきものの」
「こわ!」
「あ、財布は渡しておくね、大丈夫、中身は取ってないから」
荷物をさっと持つと、おっさんは手をひらひらと振って、じゃあまた明日ね、と言い残して楽しそうな足取りで通りの方へと歩いていった。
「俺の意向とか都合は全部無視かよ…」
追いかける気力もなく、立ち去るおっさんの背中を見つめるしかなかった。あんな適当なおとなでいいのだろうか。あんなふうにはなりたくないんだが。
日が傾いて、少し風が出てきた。ふと、俺は二日酔いが醒めていることに気がついた。
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