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どうやら予想通り声の主は女性らしく、男性となにか言い争いをしているようだ。
……いや、この場合は少し違うか。女性が男性に縋っている。それの言葉が、正しい。
「……あなたのことが、なによりも、誰よりも好きなのよ!」
つんざくような悲鳴にも似た声が、ヘレナの耳に届いた。
それに眉を顰めていれば、次に耳に届いたのは「そういうのは、しないでほしい」という静かな声。
……この声を、ヘレナはよく知っている。
理解するとほぼ同時に、女性が叫んだ。
――ルーファスさまっ!
と。
ルーファス。
それはこのルウェリン王国では、そこそこメジャーな名前である。
だからこそ、『彼』である確証などない。いや、違う。確証はある。
先ほどの声。あれは、間違いなく――劇場『アシュベリー』の看板舞台俳優、ルーファスだ。
それに驚きつつも周囲を見渡せば、ここはよくよく見れば『アシュベリー』の裏手の路地だった。
……何度も何度も近くを通っているのに、全く気が付かなかった。
そう思いヘレナが頬を引きつらせていれば、視界の端にルーファスと美しい女性が映る。
「ねぇ、ルーファスさま! 好きなの! どうか、私と付き合って頂戴!」
どうやら女性はテレシア同様、ガチ恋勢らしい。それに気が付き、ヘレナは内心で「面倒なことになったわ……」と思ってしまう。
ここを突っ切らなければ、屋敷には帰れない。かといって、あの修羅場の中を突き抜ける勇気はない。
そもそも、ルーファスの前に出る勇気さえも、ない。ヘレナにとって舞台俳優とは夢を与えてくれる、いわば別次元の存在なのだ。
……目の前に現れたからといって、手放しで喜べるようなタイプではなかった。
(ここは、気が付かれないようにゆっくりと歩いていきましょう)
幸いにもルーファスと女性は、現状互いしか見えていないらしい。その証拠に、ヘレナの存在には気が付いていない。
ルーファスだって、ファンの扱い方は心得ているはずだ。ならば、ヘレナが首を突っ込む必要なんてない。むしろ、首を突っ込めば余計に面倒なことになるのは、手に取るようにわかった。
……ここは、大人しく通り過ぎるのが正解である。
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